いつかは

父はもうかれこれ30年以上前に50代で亡くなり、義母は20年前に77歳で、義父は5年ほど前に100歳でなくなりました。

今、私の母は83歳で実家で末の妹と二人で暮らしています。

私は22歳で結婚して家を出てしまったのですが、末の妹が25年くらい前に一家で転がり込んできてからずっと一緒にいます。

妹には3人の子どもがいたのですが、それぞれ独立し、ダンナさんも単身赴任で今はおよそ9LDKの家に母と二人きりです。

私が18歳の時に、大きく建て直したぶんが6LDK(当時はLDK部分がお店だった)私が10歳の時に建て直した部分(3部屋分)はそのまま残し、私が22歳で家を出るまで使っていた部屋はそちらになります。10歳~18歳までは7畳半ほどの個室、18~22歳まではそれまで妹二人が使っていた8畳の部屋。妹二人は新築のそれぞれ6畳の部屋へ。

妹一家が転がり込んできて、ちょうど私達3人が使っていた部屋がそれぞれ甥っ子たちの部屋になり、私が一番最初に使っていた7畳半の部屋は妹夫婦が使っていました。

今現在、使われているのはその7畳半の部屋だけなのですが、結局は甥っ子たちのものが残っていたりします。

昔は2階の8畳6畳の続きの和室で嫁に行った私達一家などが帰省の際に寝泊まりしたりしていましたが、妹一家が家に入ってからは日帰りが中心で10組くらいあった客ぶとんも処分してしまったということで、実家に泊まることも殆どありません。

ただ、今年早々、私は体調を崩してなんだかんだで1ヶ月ほど、実家に泊まり込ませてもらっていました。

 

曽祖父の代から100年以上に渡って住んでいる実家ですが、実は借地です。

事業で羽振りがよかった曽祖父が「別宅」として建てた家だったのですが、事業に失敗して何もかもなくし、家を売り払った挙げ句、「お情け」で住まわせてもらっているという話でした。

私が10歳の時に建て直した家は、当時で築70年という話でした。この地区では初めての「2階建て」の家だったと言います。それが別宅だったので、曽祖父の羽振りがよかった頃は本当に地域の名士だったようです。祖父は次男で、本来の跡取りである長男が早逝した時の葬儀が語りぐさになるくらい立派だったそうです。曽祖父はお相撲を呼んだり、近くの神社やお寺に寄進したりしていたそうです。

でも、伯母(父の姉)の言によると、曽祖父が事業に失敗した時には親戚一同が寄ってたかって骨董品などめぼしいものを持っていってしまったそうで、その後、本当に極貧の生活を強いられたそうです。

貧乏な状態に嫁いできた母は、とても働き者で母の働きがあったからこそ、私達はどちらかと言えば豊かに暮らせたと思います。10歳の時に普請をした時にクーラーがありましたし、ピアノもかってもらいました。私は私立の4大、妹たちも短大を出してもらいました。下の妹などは県外の短大に下宿して行かせてもらいました。でも、もともと甘ったれの末っ子だったので半年でやめて戻って来て、その後は結構お高い専門学校に行かせてもらいました。

私は大学を卒業してそのまま嫁に行き、その3年後に父が倒れ、3年弱の闘病の末、亡くなりました。すぐ下の妹は大学時代に知り合った相手と結婚し、私は長男、そして長女を出産して父に見せることができました。結婚には間に合いませんでしたが、末っ子の妹も、今のダンナさんを紹介することができました。

父が亡くなった時母はまだ50歳でした。私と妹は全て親がかりで嫁に出してもらい、父が亡くなった後に結婚した末の妹も、やはり「姉たちと同じくらいには」と言う母の頑張りで、それなりの嫁入り支度をしてもらったと思います。

父亡き後も母は65歳まで自営業を続け、そしてそれから20年、のんびり暮らせています。

私は母をすごい人だと思っていました。今も思い続けています。

たとえ、母が今だったら「毒母」と言われかねない暴言大王であったとしても。

どれだけ辛く悲しい言葉を投げつけられてきたとしても、これほどに頑張って家を守り子どもを育てた事実の前にはひれ伏すしかないと思っています。

 

それに比して私はどうなのでしょう?

娘が摂食障害になった時、娘に責め続けられる毎日でした。

私は母の暴言で苦しんできたので、絶対に子どもに対して暴言を吐かなかったと言い切れます。でも、確かに過保護で過干渉でした。心配性で彼らの未来や希望を壊してしまうような発言もしたかもしれません。

でも、私は決してそんなつもりはなかったのです・・・

と言うか、子どもたちはわかってくれると思っていました。

私自身が「おまえは常識がない自分勝手な人間だ」 「ネクラで不器用で役に立たない」と言われても、それは事実だから仕方ない、と思ったし、それを指摘してくれるのは親だからこそだと・・・

でも、やっぱり、それらの言葉はキツかった・・・だから私は、そういう言葉を一切言っていません。

そして、本当に子供のためにお金も時間も労力もかけてきました。

お弁当作り、送り迎え、そしてお金の心配のない生活・・・

私が欲しくてしてもらえなかったことは特に優先してやりました。

でも、私が欲しかったものと娘の欲しかったものは違っていました。私が必死になって与えていたものは娘にとってはお仕着せでしかなかったようです

 

10年前から私は自分のやってきたことの罰を受けることになりました。

でも、何がいけなかったのでしょう? 

頑張って頑張って、本当はやりたくないこと、メンドクサイって思いながらも、それでもいつも人のことを優先してやってきたのに・・・

 

いつもいつも一人、いつも一人 空回り空回り・・・こんなに頑張ってきたのに・・・

 

 

経済的には恵まれているし、夫は優しいし、子どもたちは学業面では優秀でした

だから、それに感謝さえ出来ていれば私は幸せでいられたはずなのです。だからだから、この辛さ切なさは自業自得なのです。

感謝の心が足りないせいで与えられた罰なのです。

 

じゃあ、どうすれば良かったのでしょう?

暴言を浴びせ続けた母でも私は今もその働き者ぶりと正義感と頭の良さを慕って尊敬しているし、それを形にしています。

でも・・・私は与えられない。

それは、私が無意識のうちに見返りを求めているのが子どもたちには透けて見えるから?

私の求めている見返り?

それは何?

 

ただ、普通に自分の人生を歩んでほしかっただけ。

「ああ、色々あったけどありがたかったな」と

私は言葉は要らないけれど態度は欲しい人です。

むしろ、行動を伴わない言葉が嫌いです。

 

私を自由にしてください。

私を自由にしてください。

私を自由にしてください。

 

だから、みんな自立してください。

もう、私に人の心配をしないでいい人生を歩ませてください。