先週の耳鼻科の特殊外来に行ってきました。
O-リングテストで私の体の全体の状況を診てもらったのですが、私の根底にあるのは「分離感」だと判断されました。
全体で8分野に分かれていて、その中にまた8つくらいの項目があります。
私の問題点?は その分離感の中にある「受け入れがたい」と「阻害された 冷えた愛 愛に値しない 愛し得ない」と言う2箇所でした。
ここで生育歴と言うか、まあ、私がこの項目で当てはまる自分の思いを口にしたのですが
私は三姉妹の長女でしたが、それこそ物心がついた時からずっと「おまえが男の子だったら・・・」と言われ続けていました。実家が商売をやっていたせいもありますが、何かと言うと「跡取り」と言う言葉を持ち出されました。それは父母からも祖父からも近所に住む叔父叔母、そしてご近所のおじさんおばさん・・・
母は父の仕打ちの愚痴として子供の頃からずっと言っていました。「おまえが生まれたときのお父さんの最初の言葉は『なんだ、女か』だった」と。
これは跡取り嫁なのに男の子を産めなかった母の悔しさなのかもしれませんが、同時に私にとっては まさに生まれた瞬間から「間違っていた」のだと自分を否定されたことになります。
私はエニアグラムではタイプ1の完璧主義なのですが、私の本質はいつも物事を正しいか、間違っているかの二択で捉える、というものがあります。
鈴木秀子先生によると、今ではエニアは生育歴が大きいといいますが、タイプの根幹というのは「持って生まれ」なのです。
だから悲劇は、元々「白か黒か」の二択をしがちな性質を持った私が、生まれた瞬間から「間違っていた」と思い込まされて来て、その長い蓄積の結果が今なのかもしれません。
私が恋い焦がれた漫画の主人公は小学校5年のときに出会った「ベルサイユのばら」のオスカル様です。少女漫画はずっと読んでいますが、好きな主人公は自分で人生を切り拓いていく女性でした。
その後も男性も女性もどちらかと言えば中性的な人が好きです。
大嫌いなのは女女女した女性。だからメロドラマとかトレンディドラマとか、そもそも恋愛ものって大嫌いでした。
現実を見ても、女を全面に出してくるようなタイプの女性は好きではないんだな、と思います。
それも、これも根幹に幼い頃に染み付いた「呪いの言葉」(コミュニケーション心理学の先生が先月の講座の最後におっしゃっていました)があるのだな、と。
母親自身がとても男勝りで負けん気が強く本当に父亡き後も一人で頑張ってきたせいもあって、母も女性っぽい人が嫌いだったように思います。
それでいながら、料理も家事も「女なら出来て当然」とか「女がやるものだ」と言う教えで、できないことを罵られました。
私は子供の頃から「おまえが男だったら良かったのに」と女性であることを全否定されながら、女性はこうあるべきだ、を押し付けられて来たのかもしれません。
「あなたは、たとえ親に『男だった良かったのに』と言われて育ったとしても、その親のはるか昔、人知を超えた世界からあなたが女性としてあなたとして生まれることを望まれてきたのです」
「あなたは生まれた時から完璧なのです」
先生はおっしゃいました。
私の頑なな心はそんな優しい言葉も、心底から受け入れようとしていません。
夫に対して、どうしてイライラするのか昔考えたことがあります。
私が子供の頃、親に「常識がない」とか「グズ、のろま、役に立たない」と罵られて、必死に直してきたことを夫は大人になっても平気でしています。
こんな事をしていて、今まで罵倒されたことがないんだ、と・・・ これで世間で許されるならどうして私は駄目だったの? と
言ってみれば八つ当たりだったのかもしれません・・・・・・
息子のお嫁さんが苦手なのはまさに「女女」しているせいかもしれません。
小柄でおしゃれで、甘えん坊でカワイイ
そして末っ子のせいか、親兄弟に可愛がれて愛されている・・・
私はいつも「お姉ちゃんだから」「姉ちゃんのくせに」 その言葉で我慢ばかりさせられてきたのに
人に物事を頼むことも、人に何かを言うこともできなかったのに・・・
胃潰瘍になるほど悲しい思いをさせられたのに、お嫁さんのために病院の送り迎えのみならず、お出かけの送り迎えも数回頼まれてしています。
いえ、本当に私は人に物事を頼まれるのが好きです。そのために自分を犠牲にしなくてはいけないとしても、おそらく自分よりも人を優先します。
Noと言ったことはほぼありません。
私は執念深く、嫌なことを覚えています。心の中では復讐心が煮えたぎっています。
例えば、父が倒れたとき、義母が見舞いに来て、前の日に「癌がある」という宣告を受けたばかりの私達を前に
病床の父に「癌はなかったの?」と
直接的には肝硬変でした。でも、それも末期で更に癌もある、もって3ヶ月、と位う宣言を受けたばかりでした。当時は本人への告知もない時代でした。
私は臨月に入ったばかりの妊婦で昼間の付添を担当していました。母は仕事の合間を縫って病室に顔を出し、夜は母が付き添い、そしてまた仕事・・・
そんな状況で、病人本人に「癌はなかったの?」と
母が言葉を失い、目に涙が浮かぶのが目に入り私は椅子にへたり込みました。父は幸い母を見ていませんでしたが、
「ええ、おかげさまで・・・」母はなんとかそれだけ絞り出しました。
そしたら義母は無邪気に「それは良かった。お父さんは良い人だから癌にはならないと思っていたの。人に恨まれる人は癌になるって言うからね」
私の家系は癌家系だと話したことはあります。祖父母と祖母の兄弟全員が癌で死んでいるので・・・
それでも、あまりにひどい・・・ 私はその時「いつか義父なりあなたなりが癌になったら同じことを言ってやる」と心に誓っていました。
でも、義母は心臓病で、義父はある意味老衰の肺炎で亡くなりました。
ああ、人に恨まれていなくてよかったですね・・・・・・
そんな恨みつらみを抱えていても、私は義理を欠くことなく最後までいい顔した嫁として義両親を見送ったと思います。
だから、私を胃潰瘍にした主犯であるお嫁さんと息子に対しても、私は結局、いい顔をし続けるのでしょう・・・
今日、診てもらった「受け入れがたい」
「阻害された 冷えた愛 愛に値しない 愛し得ない」 は
もしかしたら、今の私自身から外への状態にも丸々当てはまるのかもしれません。
その表によると、私の目指すべき道は「穏やかな」と「安らかな」でした。
義母が亡くなって20年、義父が亡くなってからでも3年。娘のメンタルがやられてから10年。その少し前から、体の不調で大学病院の神経内科に通っていました。
胃潰瘍になった直接の原因も5年前にあります。
人生の最悪の時期は娘がおかしくなった10年前から始まりましたが
やっと娘のメンタルが落ち着き始めたのが5年前だったのに、入れ替わるかのように胃潰瘍になり、このあたりから体と心の不調が同時に出てきたように思います。
私のメンタルは見た目とは裏腹に実はかなり繊細だったと思います。
耳鳴りが始まったのが義母と一緒にでかけた時から、と書きましたが、結婚してから肩こり腰痛、特に腰痛がひどくて朝起きるのがすごく苦痛だった時期が続きました。
また、いつも胃が重くて、日記にはいつも「胃の存在を忘れて生活できたらどれほどいいか」と胃の痛みばかりを書いていました。
でも、恐ろしいことですが義母が亡くなってからパタリと胃の痛みがなくなりました。
その後、朝起きれないほどの腰痛がなくなっていることにも気が付きました。
申し訳ないけれど私にとって義母がいかにストレスのもとであったかしれません。
今思えば、20年前~10年前が私にとっては人生で一番穏やかだった時代です。インターネットを始めたのが1999年、エニアグラムを習い始めたのも、HPを開設したのも同じ頃でした。オタク仲間ができたり、追っかけ仲間ができたり、東京大阪、いろんなイベントに出かけ・・・まさに人生の春を謳歌しました。
その時には体も心も不調ではなかった、もしくはこれほど落ちないですんでいたように思います。
何もかもが崩れ去ってしまったのは娘のメンタルがおかしくなった10年前。
そうやって、原因を人のせいにするその性格こそが全ての元凶だったとしても
半世紀以上もそうやって気が付かずに生きてきたのです。
たくさんの自己啓発本を読み、セミナーに通い、娘が摂食障害になった時にはカウンセリングも受け・・・
それでも、今も 同じところをグルグル周り続けています。
先生がくださった言葉も正直なことを言えば、いろいろな本で何度も目にしています。
自分が変わればいい、それはわかっています。
でも最終的に「変わらない」を選択しているのも自分です。
娘のことでお世話になったカウンセラーさんに なぜ、(娘が)変われないのか、と言えば「変わらないことにメリットがあるから」だと言われました。
私が幸せにならないメリットは何かと言えば子供の頃の刷り込みもあると思います。
何かで「人生において幸せも不幸せも同じ量」という話を聞いたことがあります。
だから幸せになるのが怖いのです。幸せと同じ量の不幸が来るのが怖いのです。
そして、やっぱり「私にとって楽しかった10年」のツケが今来ているのではないかという思いもあるのかもしれません。
霊視をしてくださる先生は娘が一番ひどいときにお世話になりました。
「今が底ならこれ以上は下に行くことはない。むしろこの先どんどん良くなる」と。
「底」はまさに仰るとおりでした。
でも「どんどん良くなる」は正直、体調不良があるので信じきれていません。
でも、言われてみれば あのドロドロの感情はないと思います。
今、コミュニケーション心理学の講座を受講しています。この2月から開講されました。
実は去年の7月から申し込みをしていたのですが、タイミング的にはここになりました。
そして今、この先生に出会ったのも、もしかしたら必然なのかもしれません。
今度こそ、私の人生の通奏低音を変えることができるのでしょうか?