「真我の実践」

去年、体調が悪かった時に通っていた耳鼻科の特殊外来の最後の日に先生が「これからはこれを目指しなさい」と書いてくれた言葉が 『真我の実践』というものでした。

「『真我』とだけ書くとわかりにくいから」と「実践」を加えて読みやすいよう、実感しやすいように、と言う配慮です。

それをしばらくPCの前に貼り付けていたのですが、年末大掃除の時に片付けてしまい込んでしまっていました。

この言葉を頂いたときには、その先生はとりあえず治療を卒業、と言う感じで「また何かあったら来てください」と

私も本当に心が軽くなって感謝していたのですが、どこかまだ余裕がなかったせいか、その「真我」 が何か、というのを調べる気もありませんでした。

つい最近、娘が借りてきた英語を身につける本をちょっとだけ興味を示したら「読んでもいいよ」と渡され、未だ本を読む気力も戻らなかったのでついつい軽く放置してしまいました。そしたら娘の逆鱗に触れ、慌てて「もう少し待って、ちゃんと読むから!!」と

こうしてやっと本を読み始めました。で、元々、英語を習うためにロングステイをしようか、なんて考えるくらいは本気で英語に取り組みたかったので、とっかかりとしてとりあえずDSソフトの「えいご漬け」がどこかにあったはずだと探していたら、自分の記憶していたところにはなく、そこにたまたま入っていたのが「速読」の本でした。ココ最近、本当に本を読むのが億劫だったこともあり、これは試してみるか、と。おそらく私のお得意の「買っただけで放置」 積読本のうちの1冊だったと思います。これは「速聴」のCDがついているので本を読むのが億劫でも取っかかれるな、と思った次第です。

3倍速、4倍速、10倍速で吹き込まれた音声をテキストを見ながら訊く、というものだったのですが、この中に中村天風氏と真我の話が出てきました。

ああ、すっかり忘れてしまっていた・・・と思い慌てて探すとちゃんと「真我の実践」と書かれた紙が見つかったので、とりあえずPCの前に貼っておきました。

そして、今日やっと、「そもそも真我って何? ついでに中村天風て誰?」とネットで検索してみました。

ザラッと書き出すと

『真我』とは、古代インド発祥の宗教から派生した言葉で、「本当の感謝をすることで引き出される「本当の自分」 宇宙心であり、無限の調和の愛のエネルギー

という事らしいです。

そう言えば、一時期、自己啓発本に凝っていていろんな本を読んでそのほとんどに「感謝」ってあったな~、私に足りないのは感謝の心、愛の心なんだよな~ と実感していた気がします。

でも、不思議とここしばらく自己啓発本からは離れていました。なぜでしょう?

交流分析の講座を習っていてどちらと言えば「自分の歴史」に重点が言っていたせいか、いや、そもそも 体調があまりに悪すぎて自己啓発に思いを寄せることすらできていなかったのかも知れません。

変な話、「感謝に感謝しなくなっていた」のかも知れないと思います。感謝されないことに不平不満は有り余るほどあるのですが、なぜか「感謝できない自分」をあまり責めていないのです。それで心が重くなっているわけでもないみたいです。 

ある意味、息子夫婦のように人に感謝しなくても(伝えなくても)恩恵を受けられる人もいるってわかってしまったからでしょうか(笑)

私は感謝を言葉として口には出さないけれど、いつも行動で示してきたと思っていました。でも、それでは伝わらないんだ、だから言葉にしなくちゃ、と焦って、さらに、それができない自分が嫌で嫌で・・・ 苦しくてたまりませんでした。

でも、なんだろう? 今は変な話、私は自分はよくやってる、頑張ってるって思えるんです。

と言うか、そう思えたのは今、このブログを書いている瞬間です。

忘れるといけないので、ついさっき調べた中村天風さんの名言で気にいったものを書き出しておきます

 

「今日一日、怒らず、恐れず、悲しまず、正直、親切、愉快に生きよ」

「持たなくてもいい重い荷物を、誰に頼まれもしないのに一生懸命ぶらさげていないか」

「終始一貫、勇気勇気で押し切るのだ」

「心も身体も道具である」

 

本当はもっと、感謝の心とか笑顔でいることとか、悪口を言わないこととか書いてあったのですが

今の私に響くものは上記のような言葉でした。速読の本に書いてあったもののほうがピンと来るものがあったのですが、未熟な私はまだ速読を初めたばかりで、1回読んだだけでは覚えられない老化現象に支配されていて響いたはずの言葉を書き出すことができません(笑)

でも、その本の中で中村天風氏の真我と著者の先生の 自分の人生の王座に真我を座らせる、と言うような事に なんとなくこの長い長いトンネルの先の出口を見出している気もします。

私はいつも焦っていました。

できない自分を嘆いていました。「できないではなく、やろうとしない」と言うのが娘の評価でした。私は自分もそれが事実だと思っていました。

でも、それでも私はたとえ1mmであっても、毎日ちゃんと前に進んでいると思います。イヤイヤであっても、やって当たり前のことでしかなくても、私にできることををやってきていたんじゃないか、と本当に今、気がついたのです。

不平不満を言うし、マイナス思考だし、自己弁護ばかりだけれど

私はそんな私でも良いような気がしています。

もちろん、もっと高みに向かうには自己啓発本にあるような生き方が正しいのだと思います。

でも「私は私」

ここで、私はやっと 以前の私の 一番好きだった「ゲシュタルトの祈り」にたどり着きました

 

ゲシュタルトの祈り

私は私の人生を生き、あなたはあなたの人生を生きる。
私はあなたの期待にこたえるために生きているのではないし、あなたも私の期待にこたえるために生きているのではない。
私は私。あなたはあなた。
もし縁があって、私たちが互いに出会えるならそれは素晴らしいことだ。
しかし出会えないのであれれば、それも仕方のないことだ

 

 

私はこの言葉が大好きで紙に書いて貼っていたのですが、娘は嫌いだ、不愉快だ、冷たい、と言いました。

なので外してしまっていました。(当時、娘のメンタルの方ががかなりやばい状態だった)

その段階で、私はこの大好きな言葉を消し去ってしまっていました。

 

でも、今はもう、自分に嘘は付きません。

「私は私」 これだけが真実です。それこそ私にとってはそれがある意味「真我」です。

コミュニケーション心理の講座の最終面談の時に先生とお話をした時に「最終的にあなたが言ったことを相手がどう受け止めるかは『相手の問題』である」というような事を言われました。

相手とトラブルにならないような交流の仕方を学ぶ講座だったので、その方法を行使して行くことの大切さも学びました。でも、それでも相手と相容れないのであれば、それは「相手の問題」であって私の問題ではない、と。

今、あらためてそれを「聖なる諦め」として受け入れることができる気がしてきました。

 

エニアグラムと出会って21年、娘の心の病と付き合って11年、霊能のある先生と出会って5年、そしてコミュニケーション心理学を学んで1年半

その間に紆余曲折、本当にたくさんのことがありましたが、

今、この瞬間が一番、心穏でいられています。

 

一体、これは何なのでしょうか?

一体何があったのでしょう?