結婚記念日

昨日は37回目の結婚記念日でした。

37年・・・・結婚する前に3年ほど付き合ったので、この5月になると40年のお付き合い・・・人生の2/3を夫とともに過ごしてきたことになります。

22歳で結婚したので実の家族との時間のおよそ2倍です。

 

今の私にとって家族と呼べるのは夫と娘なのだと思います。息子は6年前に結婚しているので別世帯ですし、いずれ娘も結婚して別世帯になってくれたら、あとは夫だけが私にとっての家族・・・

夫の父は100歳、祖母が98歳で亡くなっており、この父方の兄弟たちは全員とても長生きでした。なので長寿家計なのだと思います。義母は77歳で心臓病で亡くなりました。検査入院と言われ入院してわずか2週間程度でした。別居の私でしたが随分 泣かされてきましたが、あっけない幕切れでした。30そこそこで未亡人になり、夫家族と同居していた義兄嫁にとっては本当に言葉は悪いけれど最後のラッキーだったように思います。夫の兄は誤診で30ちょっと過ぎで亡くなっています。そのときには夫家族は本家で祖母も同居していて周りは親戚だらけ、夫の父は9人兄弟・・・ そんな大変な中で二人の子どもを抱えて兄嫁さんも大変だっただろうな、と思います。ただ、この方はこの大家族の中で「何もできない」を貫ける人だったのはすごいと思います。彼女がやっていたのは食事の支度と自分たちの洗濯のみ、だそうです。

もちろん、それは義母から聞かされた愚痴なのでなんとも言えませんが、少なくとも実家にいた頃、何をやっても不器用で役立たず、と言われていた私より何もしない人だ、と感じていました。義母も結婚当初はお金持ちのお嬢様だったらしく「農業の手伝いはしない」と言う条件で嫁に来た人だったそうで、実際に義母の手料理は食べられたものではないくらいひどかったです。

いずれにしても義母も義兄嫁も、もしも私の母が姑であったなら叩きまくるほどの出来だったと思います。正直、私は母の罵倒を受けて育ち、それが世間の評価だと思っていたので、彼女らのおかげで「私って世間一般ではできる方なのでは?」と気づくことができました(笑)

 

でも、実際に夫と結婚して別の家族、家庭を見て私が感じたのは、どうしてこの程度の夫が義母には絶賛されて、私はあんなに辛い思いをしてきたのだろう、ということです。

義母はとにかく息子を大絶賛して、なにか不都合があると私のせいにする典型的な姑でした。母からの暴言で慣れていたとは言え、他人からはどちらかと言えば良い評価をもらっていた私にはしんどかったので、泣いて夫に訴えたのですが、夫は事なかれ主義と言うか、全く、そういうことを意に介しないタイプで自分がなんともないからか、私の辛さには一切、寄り添ってくれませんでした。

義母が亡くなってもうすでに20年以上になりますが、私の中には15年間ほどの恨みつらみが消えることなく、夫に対する不信感となっています。夫は最後の方には庇っていた、実家にもあまり行かなくて良いようにしていた、と思っていて、私の恨みつらみを理不尽に感じているようです。

夫のやることはいつもピント外れだと感じます。

義母が亡くなってから、それでもイイ顔シイの私は「お義父さんが寂しいだろうから顔を出してあげて」と夫に言い続けていました。ただし、私が一緒に行くのは盆と正月と田植え、稲刈りの年4回程度です。でも、夫には月に1回程度は行ったら? と。

でも、夫は たま~に行く程度でした。その後、義父が96歳の時に施設に入ることになりました。この時、兄嫁は自宅での介護をしないでとっとと施設に入れたことで田舎のご近所からはかなりバッシングがあったそうですが、そもそも、それまでも人付き合いもしないできの悪い嫁だと義母が吹聴して回っていたおかげで、「あの嫁ならさもありなん」で過ぎたみたいです。

ただ、その義父の介護施設のお金が出せない、と夫や夫の姉に協力を要請してきたときには義姉ともども「普通は跡取りが出すよね」と義姉も「まさか介護費用を出せと言われるとは思わなかった」と。義兄が亡くなっていた時に義実家所有の田畑の半分以上は義兄に生前贈与だったのでそれは義兄嫁が相続したはずです。もちろん、田畑なんて売れなければ何の役にも立ちません。でも、その後、義兄嫁一家は、義父の稼ぎ(75歳まで職人として働いていた)と義母の内職(なんと月に20万くらい仕立てをしていた)で養ってもらっていたのです。義兄嫁は義母の洋裁の手伝いをしていたそうですが、義母に言わせるとお小遣いも上げていたし、遺族年金とかの手当は全て義兄嫁に渡していたし、とにかく家に関することは全て義両親がやっていました。そういうことを夫は義姉から聞かされていたので、田舎の冷や飯食いの次男という立場でことごとく長男との格差を受けて育った夫は、どう思ったのかな・・・ 私だったら納得行かないのですが。そもそも義兄が亡くなる前に田畑のほとんどを長男に生前贈与するってのは次男に渡したくない現れですよね? (当時、夫は高校生) いや、それは長男が仕組んだことだとしたら、長男亡きあと、車の免許を取って家や長男家族のために足になっていた夫も優しすぎると思いますが・・・ 

まあ、多分私が夫に惹かれた最大の理由は「優しさ」なのですが、でも3年も付き合っていればこれはただの優しさではなく「優柔不断」だってハッキリ認識はしていました。

それが、結局は今の今、結婚して37年経っても変わらないでいるのです。

夫との40年は、おそらく誰といても様々な問題を抱えて過ぎる40年だとは思います。

少なくとも夫は真面目でお給料もよく、暮らしではとても恵まれていたと思います。それは感謝しかないのです。

しかし、夫がピント外れだと思うのは、例えば義父が施設に入ったのは96歳のときでした。

この時、私は義父が寂しいだろうから、なるべく顔を出してあげて、と言いました。ところが、義兄嫁さんから「施設から里心がつくからあまり会いに来るな、と言われている」と。

その施設は実家から車で5分足らずだったのですが義兄嫁さんは年に数回しか行かなかったそうです。私達一家は就職して関東に住む息子が帰省してくる盆と正月の2回は必ず顔を出しましたが、夫はそれ以外には義兄嫁の 顔を立てて? 滅多には行きませんでした。

私は意地悪く「薄情だね・・・」なんて嫌味を言っていたのですが。まあ、でも施設とかの考えからすればそれも正しいのかも知れないので、今はなんと言っていいかわかりません。

ただ、情的に年老いた父親の見舞いと言うか、顔を見に行くと言うか、顔を見せに行くとかそういう気持ちはないのかな、と。

結局、最後は肺炎になり病院に移って、その後、数回見舞いに行って亡くなりました。その時も私と娘が促して、それこそ夕方にもちろん眠っているだけの姿を見に行ったのですが、娘も亡くなる前の祖父に会えてよかったです。その後、葬儀を巡って家族葬にすることにしたら、なぜか義姉と義姉夫が「家族葬だから子供だけ」と言い張って、うちの娘や孫である義姉の娘と息子の参列を強烈に反対しました。ただ、本家の跡取り息子と、本家から嫁に行っている娘(孫)は夫と子供(ひ孫にあたる)で来い、と。ワケわからない・・・ この時初めて私は義姉に歯向かって喧嘩しました。何しろ、「おじいちゃんに長いこと会っていなくて後悔しているから最後のお別れだけはしたい」と言っている自分の娘に「家族葬だからおまえは来るな」と言っておいた、と自慢気に言うので「それはおかしいのでは?」と。で、うちの娘は来る予定です、と言ったら「泣きわめく娘をやっとなだめたのに、なんであんたんとこの娘が来るんだ!」と激怒したのです。

私はもう、その姪っ子が可愛そうになって、義姉さんを振り切って夫に、義姉の長男のところへ電話して、(長男ももちろん来たがっていた) 姪っ子に連絡してあげてくれ、と。そしたら長男もホッとしていたようです。(義姉の夫は今で言うところのモラハラ、絶対権力者で誰も逆らえないらしい) その電話をしている時も義姉とその夫がグダグダ言っていましたが、このときばかりは夫が(と言うより私が)押し切りました。しかし、結局、ウチの娘も姪っ子も通夜が終わって人が引き上げてからこっそり、最後のお別れに来ました。もちろん、儀式など必要はないの出、ただ最後に顔を見ることができただけでも良かったと思います。それを奪おうとした義姉とその夫の感覚がわからないし、それに強く反対しよとしなかった夫の感覚が私には許せませんでした。

そしてさらに夫のピント外れな行動は 義父が亡くなってから毎月、月命日にお墓参りに行くようになったのです。私からすれば「はあ?」です。死んでから墓にまいるより、なんで生きている間に顔を出してあげなかったのか、と。

一度、私が軽く「なんで今さら毎月行くのか?」と聞いたら「お母さん(私)が、マメに顔出してやれって言ったじゃないか!」と。「それは生きているうちだよ!!!」って怒ったのですが、どうも理解ができないみたいで、義父の死後は月に1回ずつは高速飛ばして1時間の実家に行っていました。ただ、去年、緊急事態宣言が出てからの1年は盆と正月(夫のみ)しか行っていませんが・・・

とりあえず緊急事態宣言が解除になるお彼岸に顔を出すようです。

いま夫の実家にいるのは義兄嫁とその息子の二人だけです。義父の相続も義姉も夫もほとんど放棄で(私達は今住んでいる土地だけもらった) 甥っ子が全て相続しました。義兄が亡くなった時の分は義姉が相続しているので、夫実家の財産は全て、この二人のものです。

言っちゃなんですが、田舎の田畑などお金にもなりません。それでも実家の建っている家の土地は300坪はあるので、いずれ土地開発などで処分することができればそこそこにはなるでしょう。義父が「俺は14代目」と自慢していた先祖の土地(でも、昔は小作農だったらしい。マッカーサー様のおかげで手に入った、と言っていた)もいずれは嫁に行った孫娘のものになるのでしょう。(跡取り息子は独身) 義父の大事な○○家は途絶えるのです。

もちろん、夫がいますが、うちの息子も子どもはいないし、娘も未だ独身(笑)もしも結婚することができたとしても子どもはわからないし、そもそも家から出る身だし・・・

まあ、夫はそういう家とか土地に執着はないようです。それくらい田舎の次男の扱いってひどかったらしいのですが、でも、私からすれば「誰にも叱られることなく育った世間知らずの坊っちゃん」です。いや、そうしないと心を保てなかったのか・・・ もしかしたら夫もかわいそうな人なのかも知れません。

 

私はいつも、自分の実家での立場、母親の暴言にも耐えてつらい思いをしていた自分にばかり焦点を当てていました。それを理解してくれない夫に腹を立てていました。

じゃ、自分は夫に対して何をしてあげることができたか、と言えば、私はいつも怒って泣いて責め立ててばかりでした。夫のほうが精神をやられても仕方ないレベルかも知れません。実際に娘はメンタルをやられたのですから、私は毒でしかないのです。

ただ、もともと人付き合いをあまりしないせいか、私の周りには毒と言えるような友人知人は一人もいなくて、煩わしい人間関係に関わることなく過ぎてきたのはありがたいことです。

むしろ、そのせいで私の中の不平不満が全て夫や娘、息子に向かっているのかも知れませんが

 

考えれば考えるほど、人が育ってきた歩んできた年月の重さを感じます。

縁あって夫婦となり、40年という年月をともにしてきたのだ、

その年月の意味をもう一度かんげるべきなのかも知れない、

と ダラダラ書き綴ってたった今、思い当たった次第です。

 

ウゲゲゲゲ!! このタイミングでバケタンが赤く光った!!!

 

最近バケタンがよく光ります。赤ではなく青であることも多いけど