人の生死

コロナのせいで実家にもなかなか、顔を出せないでいます。

いつもだったら母の日のプレゼントを届けに行くのですが、今年はどうしたものか、と思案中です。前回書いたように、妹に対して少しばかりわだかまりがあるし、妹の旦那さんもいるので実家にも行きにくく感じています。

母は正確には84歳かな? 母方の祖父母が亡くなった年になります。昔から「私は80まで生きれば十分」と言っていましたがそのうちに「おばあさんの年までは生きたいな」になり、ついに追いつきましたが、はてその先はどうするのでしょう(笑)

その母方の祖母の口癖が「あんね(私)が二十歳になるまで」→「あんねが嫁に行くまで」→「ひ孫を見るまで」となって、結局、うちの息子が2歳になる頃に亡くなりました。祖母にとっては亡くなった娘が生んだ男の子が初孫のはずですが、その娘が不幸な亡くなり方をしていたのでその孫とは会えなくなっていました。孫息子の姿を見たのは祖母の家にいた跡取りの息子の娘(孫娘)の葬儀のときでした。私たちの従姉妹に当たるその孫娘は小学校に上がる年の3月3日、ひな祭りの日に自宅の前の道路で母親の目の前で車にはねられて亡くなりました。

私は当時小学6年生で、あの時のことを思い出すと本当に辛くなります。小さな棺の中で眠っていた従姉妹は本当に小さくて可愛くて、ただ頭にまかれた包帯だけが異様で・・・

事故の一報があって母は病院へ飛んでいきました。夜中に「だめだった」と電話がありました。何があったのかわかりませんでした。その時のことを母は何度も語っていました。お医者さまに「もう助かる道はないからせめて少しでも早く楽にしてやったらどうか」と言われたのだそうです。

母やおばたち、祖母は小さな体で苦しむ姪っ子がかわいそうで「楽にしてやったほうが良い」と思ったのだそうですが、でも父親である叔父だけが、どうしても嫌だと泣き叫んでいたそうです。それでも説得に応じて受け入れて、その後何をしたのか母ははっきりと見てはいなかったそうですが、お医者様が何かをして、そしたらそれまでゼーゼーと言っていた姪っ子がすーっと静かになった、と。あれは今で言うところの「安楽死」だったのだろうと思う、と母は言っていました。おそらく、あの時代はそう言うことが普通に行われていたのだと思います。

私は祖父の看病に付き添っていたことがありますが、最期を看取ったのは私でした。

祖父は末期の膵臓がんで、私は大学に入った年でちょうど夏休みだったので日中の看護を担当していました。病院でいつもどおりベッドの上げ下げをしたりしていたのですが、突然祖父が私の腕を掴み何かを訴え始めました。その声はもう声にならず、ただ息遣いのみでしたが、それは「苦しい」「苦しい」に聞こえました。私は慌ててナースコールをして看護婦さんが飛んできてくれました。私の服から祖父の腕を引き剥がすと祖父はベッドに倒れ込み、そのままスーッとあの恐怖の息遣いが薄くなりました。「お家の方を呼んで!」と叫ぶ看護師さんに部屋から追い出され、急いで実家に電話をし、そのまま廊下にいました。そしたら、たまたま伯母2が見舞いにやってきて、祖父の部屋に通されました。私が廊下からその部屋を覗いた時には祖父の心電図?はほとんど動いていない状態で、伯母2が祖父の手を握っていました。その後、父が駆けつけ、妹2がたまたま見舞いに駆けつけ・・・たぶんそれからすぐに「ご臨終です」と言われたと思います。看護師さんだったか伯母2だったかが「おじいさんに最後のお水を」と言ってそこにいた皆で順番に唇を水で湿らせてあげたような気がします。後に、伯母2は自分がおじいさんを看取ったと、私が来るまで待っててくれた、と皆に自慢していました。妹2も「なんだか呼ばれた気がするんだ」と最期に間に合った事を自慢?していましたが

でも・・・ あなたたちが来る前に「苦しい苦しい」と言ってしがみつかれた私の恐怖などわからないでしょう・・・ 本当に、あの後何度も夢に見たくらいです。ほとんど寝たきりだった病人のどこにあれほどの力あったのか、と言うぐらいの凄まじい力でした。今でも思い出すと胸が痛くなります。

父が亡くなった時は、まさにあの時の妹のような状態で、駆けつけた時には「もう、助からないな」と瞳孔が開いた状態の父の顔をぼんやりと見て思いました。 ただただ必死に心臓マッサージをする先生と時々しか動かない心電図の機械を見ていました。

我が家から病院までは車で15分くらいで、実家からは1時間位です。なので、私たちが到着した後に妹たちが到着しました。その時は妹1は里帰り出産の予定で実家にいました。母からの電話にすぐに妹が出たのは違和感があったせいで、実際、病院に駆けつけた時には妹は破水していました。父の蘇生はまだ続いていましたが、お医者さんに「すぐに産科へ行ったほうがいい」と言われ、そのまま夫に連れられて実家近くの産院に戻り、結果として父が亡くなった同じ日に妹は男の子を出産しました。妹は父の最期にも葬儀に立ち会うことができなかったため、ずっと父の死を実感できずにいた、と言っていました。

初めての子供を出産しても周りはみんな父の葬儀の準備で慌しく、それでも葬儀に出ていた伯母1がせっかくだから顔を見に行きたい、と妹の産院にお見舞いに行きました。

産院にとっては縁起でもない喪服の軍団が妹の子供を見に行き、伯母1は「こんな時に『おめでとう』って良いのか申し訳ない」と。それでも伯母1は「いい男の子だね、おめでとう」と。

実はその時初めて私は妹の子供が生まれたことに対しての「おめでとう」という言葉を効きました。もしかしたら、私も妹に「おめでとう」と言う言葉を掛けてあげていなかったかもしれません。妹の旦那さんが「名前は○也にしようと思っています」と言いました。○は父の名前の一部です。私たちはありがたくて号泣しました。本来なら1ヶ月近く早く生まれる予定だったのに長引いて、結果として父が亡くなった後に生まれた男の子。多分、父のことがなかったら違う名前だったのだと思います。私たちはとてもうれしかったけれど、彼にとってはどうだったのでしょうか?

ずっとおじいちゃんが亡くなった同じ日に生まれた、おじいちゃんの名前をもらった、と言われ続けるのは・・・ 

父方の叔父の娘は亡くなった祖母に似ていました。多分、祖母が亡くなった1年後くらいに生まれたと思います。なのでずっと「おばあさんの生まれ変わり」と言われていました。私は彼女とはあまり付き合いがありませんでしたが、正直、我が家の家系の中では飛び抜けて「美人」だったと思います。本当に亡くなった祖母にそっくりでした。私はそれが妬ましくてたまりませんでした。おそらく、妹たちを含め、祖母と血のつながったいとこたちの中で、祖母のことを覚えているのは私だけだと思います。私は祖母にかわいがってもらった記憶もあるし、祖母が入院するまでずっと私は祖母と一緒に寝ていました。私はきれいで働き者の祖母が大好きだったのです。

(母は姑、舅の悪口ばかり子供に吹き込んでいたけれど、それは私にとっては辛かった)

 

人の生死には何らかのドラマがあります。

でも、きっとどれもが正しい記憶ではないと思います。どこかで美化されたり封印されたり・・・

今、なにか心の底に引っかかるものがあるのですが、その正体がつかめません。

モヤモヤした気分に襲われています