先祖と因縁

私の父方の祖母は埼玉出身です。母がおばあさんは丙午の生まれだと言っていたので1906年生まれのようです。祖母は私が小学2年になったばかりの4月に62歳で亡くなりました。

あと数年で私もその年になるのですが、あらためて、こんな年だったんだな、と思います。

さて、その祖母は横浜に奉公に出ていた時、関東大震災に遭遇したそうです。関東大震災が1923年ということなので17歳ですね。

祖母が亡くなった時、私は小学生だったので、祖母の話は全て、母からの又聞きなのでいくらか脚色されているかもしれません。

祖母が関東大震災に遭遇した時、勤め先の家のお風呂を新設したところで、檜の浴槽に水を満杯に張ってあったのだそうです。それが水不足の震災の時にはとても重宝したそうです。ただ、祖母は檜のにおいの染み付いたお水が相当苦痛だったらしく、その後、折詰弁当(当時は木の箱)のご飯がどうしても食べられなかったそうです。実は私も物心ついた頃から木の香りは好きなのに、折り詰めのご飯が苦手でした。前にも書きましたが、実家は仕出し屋もやっていたので折り箱は常にたくさんおいてあって、折り詰めもよく作りました。材料が余ったりすると、家族の分の折り詰め弁当などを作ることもありました(と言っても、ご飯の入るお弁当は滅多になかった) 折り詰めだけならなんとか食べれるのに、ご飯だけはどうしても受け付けなかったのです。それは、私がおばあちゃん子だったから、知らずに祖母の好みを押し付けられていたせいでしょうか?  でも、考えてみれば、商売は父母と祖母が主になってやっていて、祖父が孫のおもりをしていた気がします。母は姑である祖母の悪口は、ケチであること、細かいことくらいしか言っていませんでした。むしろ、美人であること、頭がいいこと、とても働き者であることをしつこいくらいに言っていました。それはもしかしたら、何もしないで酒だけを飲んでいる祖父に対する嫌味だったのかもしれませんが、私があまり記憶にない祖母に悪いイメージを持っていない原因かもしれません。父方の家系がでっぷり肥えて、顔ものっぺりしたタイプだったのに対して、本当に祖母の昔の写真を見ると、目鼻立ちがはっきりして、スラリとした美人です。さらに、ど田舎の私の実家からすれば横浜から来た嫁、と言うだけで垢抜けていました。私の記憶の中にはかれこれ50年以上も前にシナモンシュガーの瓶があったのを覚えています。そう、うちのような田舎では「ニッキ」と呼ばれていた時代です。今から思うと何もできない何もしないデブデブだった祖父が、どうしてこの祖母と出会って結婚したのか不思議でたまりません。しかも、当時、祖父には別に妻がいました。と言っても昔はよくあったことですが、祖父の兄が亡くなったため、その残された妻と無理やり結婚させられて、祖父にとっては不本意だったのでしょうが・・・

結局、これも前に書きましたが、祖母は前の奥さんを追い出し、のち添えについた感じです。今で言うところの略奪婚ってことでしょうか・・・

結果として父には祖父の兄の子である姉1(本来はいとこ)と母親違いの姉2がいて、同じ血の妹と弟がいます。美人の祖母の血を引いたのは父と弟で、妹は、どちらかと言えば祖父の血に近くいとこや腹違いの姉たちとそっくりでした。

これも前に書いたのですが、祖母は姉2と同い年の男の子がいましたが、同じ家に同じ年の兄弟がいるのは良くないと言われ、嫁に来る条件に、その子を里子に出さなくてはならなかったので祖母はひときわ姉2を嫌っていたそうです。その里子に出した子供は祖父との子供らしく、本来ならその子が跡取りのハズで、そうだったら父は家を継ぐこともなかったのかもしれません。そしたら父も弟(私にとっては叔父)のような放蕩息子だったかもしれません。

母は父の生前に、一度も会ったことがないその兄に会いたいか?と聞いたそうですが、答えはNoだったそうです。それでも母は、どこかで父そっくりの兄が現れることを夢想してたそうです。私の母にも異母兄弟、異父兄弟がいてどうやら異父きょうだいは一緒に育ったようです。いつも「戦死した兄ちゃん」と言っていましたが、おそらくこの人は祖母の前のダンナさんのこのハズ。嫁ぎ先で嫁いびりされて亡くなった姉も多分、異父姉妹。異母兄弟は兄と姉がいたそうで、一度もあったことがなかったはずですが、祖父が亡くなったあと、跡取りの叔父の家がずっと祖父名義になっていて、その土地を娘夫婦の名義に変える段になってやっと名義変更のために祖父の子どもたちの判子が必要になって、異母兄弟たちと接触したそうです。しかし、異母兄弟からすれば父親が亡くなった時に連絡もしてこないで、今更・・・ということになって、結局、裁判を起こされました。母と姉、妹は末っ子の弟が相続することですでに財産放棄していたので、当事者は叔父とその異母兄弟だけでした。ところがこの叔父は昔っから末っ子気質で当時、70を過ぎていましたが、裁判に一人では出れないと一番仲の良かった母に泣きつき、結局母が裁判に臨んだそうです。母も70を過ぎて初めて?異母兄弟と対面したそうですが、ふたりとも当時80過ぎで、ともに独身で一度も結婚したことがなくきょうだい二人で暮らしていたそうです。私にとっては全く赤の他人に近い伯父伯母に当たる人たちですが、父親に捨てられた恨みつらみが結婚しなかった理由かもしれない、とちょっと祖父に対してネガティブな気持ちを抱いてしまいました。母は子供の頃、父親がめちゃくちゃ怖かった、と言っていましたが、私たちにとってはとても優しい祖父でした。(私が高校2年の冬に亡くなりました)

時々、自分の人生とかがうまく行かない時に「先祖の因縁」と「業」とか言われることがありますが、たかが2代3代さかのぼっただけで、誰かの恨みを買っている状況があるのに驚きます。もちろん、私も自分の逆境を先祖の因縁、というつもりはないのですが、心が弱っているとちょっとだけ、もしかしたら自分の血筋が誰かに恨まれていて「悪縁を断ち切らねば」と思ってしまったりします。私は子供時代には、ご近所の人たちに「あんたは幸せだね~。あんたが幸せなのはお父さんお母さんがいい人だからだよ」と言われて育ちました。なので単純に両親の積んだ徳が自分が幸せである?元だと思っていました。しかし、娘がメンタルをやられ、自殺未遂をしたり、その後、摂食障害で荒れて、まるで地獄のような日々を過ごし、本当に弱りきっている時は、自分を責め続けていましたが、そのうち「因果応報」の概念と一緒に、自分自身の行動もさることながら先祖の因縁にも思いを馳せてしまいました。それは、実家の祖父母たちの因縁というか所業を知っていたせいかもしれません。もし、娘のことでもっと弱っていたら、怪しい霊感商法にはまり込んでいたかもしれません。かつて、それほど深刻に悩んでいたわけでもないけれど、毎日が憂鬱で腰痛と耳鳴りで弱っていた時に、某有名な易の相談会(2000円のみと謳っていた)に行ったらふてぶてしい女易者に「このままだったら、もっと運気が下がる、どんどん悪くなっていく」と言われ180日間の祈祷を勧められました。やり口が汚いですよね、無料もしくは低料金の相談で釣っておいて、結局 1日5000円で祈祷を代わりにやってやる、とのこと。つまり90万です。とんでもない話だと帰ってきましたが、私の前のおばあさんが何度も頭を下げて「よろしくおねがいします」と帰っていったところだったので、金のなさそうな小娘(だった)は、ハナから相手にしないでとっとと無罪放免したのでしょうが、あのおばあさんがいなかったら、私も囲い込みにあって契約させられていたかもしれません。あとは霊視相談?で3万くらいで手紙で鑑定してもらったことがありますが、そこには「あなたは将来、夫以外の子供を生む」って書かれていて、ムッカ~~!!って来た覚えがあります。いわゆる、占いは当たらなかったら「知ったことで予言を回避する行動をしたせいだ」と言うのだそうですが、ぶっちゃけ言うと、私は、どちらかと言えば「男嫌い!」 ダンナ以外の男の子供!? 冗談じゃない! 男となんて必要以外で口も聞きたくないくらいって思っていました(笑) なので、それがキッカケで、霊感商法とかにお金を出すことはしていません。

ただ、スピリチュアル的なものが好きなのは間違いがなくて、開運法だの開運のお守りだの、神社仏閣へのお参りなどは結構飛びつていしまっています。

あと、このブログでもたびたび登場する「視える人」この方の見立てだけは信じています。ここの所、予約が全く取れずに去年の7月に視ていただいたのが最後ですが、それで時間を置けるくらいに、今は状態が良いということなのかもしれません。

そもそも、その先生との最初の出会いの頃から「今が底だとするなら、この先、これより悪くなることはない。むしろ、これからはどんどん良くなっていく」と言われていました。もちろん、日々の浮き沈みはあるけれど、考えてみればまさに、その先生に出会った頃が最悪であるなら、それ以降、本当に薄皮をはぐようにゆっくりとではあるけれど、状況は良くなっています。

そして究極、「金銭面での老後の心配はない」と言うことと、「それによって人生設計が変わってしまうような大きな病気や怪我は家族を含めてない」と言うこと「あなたが誰か他人に対して危害を与えてしまうことはない」と、ある意味、人生における心配事の上位を否定してくださっているのです。それなのに心配するって、先生を信じていなってことですよね・・・ 

その先生を信じているのは娘が一番ひどかった時に、娘のつらい思いを解説してくれた感じがあること。そして、自分を責め続けて私自身に対しても「あなたはもう役割を捨ててあなたの人生を生きなさい」とおっしゃってくださったこと。まさに私自身を肯定してもらったことです。それが今もできないではいるけれど、でも、どれだけ自分の心が救われたかしれません。

その先生は、その人の人生において無いものは無い、とハッキリ言うそうです。それ以外は、余分なことは言わずに、その人の選択の余地を残しておきます。なので、娘のように「これ」と決めて欲しい人には不向きです。私も大体において「あなたがやりたいことは全てやっていい」と言われているので、厳密にどれを選ぶか悩んでしまいます。

将来につながる、と言われて始めた心理学ですが、これは本当に劇的に生きやすくなりました。ここで、心理学の先生に出会えたことは私のこの先の人生において画期的な財産だと思います。あと、20年以上前に出会った、エニアグラム関連も続けたほうがいい、と言われていましたが、東京まで出向く費用がずっとネックになっていたら、まさかのコロナの影響でZoomで受講できるようになり復帰できました。娘が仕事で悩んでいた時に、やはりいくつかの選択肢をみていただいたら、当時まだ受験だけして結果の出てなかった2つの資格の職業を「正社員としての可能性があるならこの2つ」と言われ、その後、合格通知が来て、その一つの資格で正写真登用されたのですが、結局すぐに辞めてしまいました。それはあくまでも「正社員になる可能性があるのならこれ」という事で、それを続けるかどうかは別、ということでした。

実はこれも、その選択を聞く前に「この子が本当に自分を活かせる仕事を見つけるのは30代後半から45歳位の間」と言われていました。(これは娘には内緒にしています)

今、娘は33歳で、今回も今月末で仕事をやめます。以前だったら、仕事を続けない娘に私はいらいらしてしまうところですが、その先生に「一箇所に長く続かなかったとしても、休憩がたくさんあったとしてもこの子は仕事をしている、それがこの子の働き方、生き方」と言われていたので何も言わないですみました。さらにこれも、娘には絶対に言えないことなのですが「選択法として、あなたがこの子の面倒を一生見ることだって可能」って言われています(笑) 「いえ、自立してほしいんです」って言ったのですが「そうは見えない」と・・・ うん、そうかもしれない・・・私が娘を囲い込んでいるのかもしれないです。 そう、あれほど「自由になりたい」 「私を自由にして」と言いながら娘の人生に干渉せずにはいられないのが現実なのです。おそらく、娘を面倒見きれる経済力が私にはある、もしくはできるってことなのでしょう。

それを、ちゃんと自分のために使うことができればかなり余裕のある暮らしができるのかもしれません。

でも、この娘の面倒を一生でも見ようと思ってしまう源流はやはり「あんたが幸せなのは両親が先祖がいい人だったからだ」と言うある意味「呪いの言葉」のせいなのかもしれません。娘を苦しめ、幸せ感を得られないようにしてしまったのが私のせいなら償わなければならない、と。

でも、そうではなく本当は「因縁を切る」ことこそが必要なのかもしれませんが・・・