つづいていくもの

小学生の頃、宿題で家系図のようなものを調べる、と言うのがありました。

先生が「近所のお寺に行けば過去帳と言うのがあって調べることができる」と言われました。母にそう言うと「自分で行って来い」と言われました。

当時の私はとても引っ込み思案で大人と話すことができない人間で、昔は何かあるとすぐに「近所のおじいさん、おばあさんに聞け」というタイプの宿題が多くて(単純にその時の担任の主義?だったのかもしれません) とにかく、嫌で嫌でたまりませんでした。ただ、成功例?として覚えているのが、家の前に住んでいたご隠居さんが昔、校長先生をしていた人で「郷土の歴史」みたいな本を自費出版していて、それを貰ったことでした。

実家は曽祖父が一代にして財を築き、一代にして破産したのですが、その曽祖父は全盛期には近所の神社仏閣に様々な寄付をして権勢を誇っていたそうで、我が家の真ん前にあるお寺の鐘つき堂や、かつては日本最古と言われたお宝があった神社の狛犬とかに曽祖父の名前が刻まれていたりします。で、その元校長先生は多分、祖父の兄と同世代だと思われます。その息子も小学校の先生をしており、私の父を始め、中卒が大半を占めるような田舎では「インテリ一家」として知られていました。ここの跡取りがうちの妹1と同じ年でした。そのお母さんは、子供の頃から私は超苦手でした。とにかく、学歴自慢が激しい人でしたし、近くに旦那さんの従兄弟が住んでいて、この一家とやたら張り合っていました。そのバトルの流れ弾が何も知らない私たち子供にまで飛んでくるような感じです。家は真ん前だし、妹が同い年なので、たま~に遊びに行ったりすることもあったのですが、例えば我が家などは座敷が茶の間で、今で言うところのリビングなのですが、その家は座敷は「子供は入ってはいけない」と言われていました。でも、おばあさん(校長先生の奥さん)がお針を教えていて、週に何回かは10人前後の娘さんが通ってきていました。(当時は本当に嫁入り修行としてお針を習う人が多かった) お針の先生なのでこのおばあさんも、ご近所からは ◯◯様、と呼ばれていました。子供心に「怖いおばあさん」と言う印象がありました。私の祖母は小学2年の時に亡くなってしまったのですが、私のイメージは本当にきれいで優しい祖母でした。祖母亡きあとは、その先生様の家のお向かいにある家のおばあちゃんが、祖母の代わりのようにかわいがってくれました。そこは私の1歳下の女の子T子ちゃんと5つくらい下の男の子がいました。おじいさんは大工さんで、オジサンも大工さんで、うちの実家はこのオジサンに建ててもらっています。その後、父が亡くなるまでこのオジサンはお休みの日はうちの父の配達にべったりくっついてきていました(笑) 父が元々仲良くしていた別のオジサンがいつからか、仕事の休みの日にべったりうちの父にくっついてくるようになっていたのですが、そこに割って入ってくる感じでした。なんだか知らないけれど、うちの父にはそう言うべったりくっついてくるお友達が多かったです。私たちはよく「おほもだち」って呼んでいましたが、クラス会があると必ず父の横にべったりくっついて写真に写っているオバサンもいて(この人に対しては母も嫉妬している感じがありありだった) 老若男女を問わず父が好かれていたエピソードはいっぱいあります。その大工さんの家のおばあさんは可愛らしいおばあちゃんでした。ある日、脳梗塞でころっと亡くなったそうです。靴下を履きかけた姿でそのまま・・・ その日、小学校へ行く私に声を掛けてくれていたのを覚えています。祖母が亡くなった時は私はまだ何がなんだかあまり理解できていませんでしたが(入院していたことだけはかろうじて覚えている)、そのおばあちゃんが亡くなった時は、その日の朝に会っていたので本当に衝撃的でした。私はそこの家族が全員好きでした。本当に、みんな穏やかで優しい人ばかりでした。と言うか、人当たりがいいと言うか・・・ もしもT子ちゃんが同い年だったらきっと親友になれていたんだろうな、と思います。それが叶わなかったのは、同い年でずっと私が依存していたN子ちゃんが、T子ちゃんを嫌っていて、彼女と遊ぶことを禁じたからです。嫌っていた理由は私を支配したかったからなのかな、と今は思います。私はN子ちゃんの下僕だったので、彼女に逆らうことはできませんでした。小学1年のときに近所にNちゃんと言う子が引っ越してきて、同い年だったのでずっと仲良くしていました。このNちゃんも、ものすごくおとなしくて優しい子でした。年の離れたお兄ちゃんとお姉ちゃんがいて、このお兄ちゃんもお姉ちゃんもメッチャ、優しい人達でした。お父さんも優しい人でお母さんはテキパキしてるけど見た目が優しい人でおばあちゃんはキツかったです(笑) ここの家にはゲームがたくさんあって、それで遊ぶのが楽しみでした。人生ゲームとかツイスターゲームとかフライパンゲーム、魚雷戦ゲームといったようなゲームが20~30は軽くあったと思います。面白かったゲームは私も親におねだりをしたりしました。なかでも、ここで遊んだ「フライパンゲーム」が今も忘れられません。

 

話が大きくそれてしまいましたが、そもそもは「過去帳」の話でした。

結局、私はお寺に過去帳を見せてほしいと言い出せず、宿題も未完成のまま、もしくは自分の家で辿れるだけたどったのかもしれませんが、ほとんど記憶にはありませんでした。

母や伯母が繰り返し語る、曽祖父の話くらいしかわかりません。先日、何かで自分の先祖を書き出す、と言うようなワークをして初めて、祖父母の旧姓ってなんだっけ? と。

で、記憶をたどっていくと、年賀状で父あてに「埼玉の従兄弟」から来ていたな、と。と言うことはきっとこれが父方の祖母の旧姓なんだ、と特定。じゃ、母の方は・・・と母の旧姓はMと言いますが、幼い頃から母に聞かされていた「お嬢様だった祖母」の実家がM工業・・・ そっか、母の実家はおばあちゃんの姓を名乗っていたんだ、と。おじいさんの実家に母たちの従姉妹が住んでいて、私たちは子供の頃、よくそこへ遊びに行ったな、と。その家の苗字がIだったので、母方の祖父の旧姓はIだったのでしょう。 って、それで合っているのかな? この年になるまで、そんな事、思い至りもしませんでした。

私の実家は本家だったので、法事が毎年のようにありました。

うちの地域は3,7をきっちり行い、50回忌のあと100回忌でといあげ、ということになります。

私が実家にいる間に100回忌も2~3回、あったように思います。戒名になっているので誰が誰かもわかりません。祖父亡きあとは母が、古いご先祖様はお寺でお参りしてもらうだけにして法事をしなくなったので、今は祖父母と父の法事だけを行っています。それもここ10年ほどは母と私たち娘3人だけです。夫の実家も本家で法事のたびに20人以上の人が集まっていましたが、義父がホームに入ってからは縮小して、その義父の法事も7回忌(来年?)でとい上げにしよう、というくらい簡素化が進んでいます。

これは時代の流れで仕方のないことだと思うのです。私の実家も娘3人とも家を出て、跡取りはいません。実家のことには無関心だった叔父が、なぜか、面倒を見る人がいないなら実家の墓と仏壇をくれ、と言ってます。母は願ったり叶ったりだけど、あの人がちゃんとおもりをするとは思えない、と言っています。彼には息子がいますがもう50も半ば近くになりますが子供はいません。彼の妹も早く結婚したけれど結局、子供ができず、誰があとをついでも結局、私といとこの代で終わりです。夫の実家も跡取り(夫の甥)はいますが、知的障害があっておそらく結婚は無理だと思います。嫁に行った妹がいますが、ここは女の子二人です。もちろん苗字も違っているし、あとを継ぐことなどありえないでしょう。じゃ、次男の夫に実家のお守りが回ってくるとしても、我が家も息子は「選択的子なし夫婦」ですし、娘もまだ嫁に行っていません。もし、娘が嫁に行って子供が生まれたとしても、夫の実家の跡を取ることはありえません。そうするとなんだかんだで私たちの代、その子供の代で私の実家も夫の実家も終わりなんだな、と。

母の実家も叔父があとを継ぎましたが、全員が育っていれば子供は6人くらいのはずが一人娘で、とりあえず同居はしていますが姓は旦那さんの姓です。彼女には息子が二人いますが、もちろん旦那さんの姓です。母ご自慢のM工業の末裔、その名前も叔父で終わりです。もちろん、本家のほうはあるのかもしれませんが・・・

 

家を継ぐとか家を守るとか、そう言うことは今ではあまり現実的ではないのかもしれませんが、やはり、年を取ったせいか「この先どうするんだろう?」と心配になってきました。

娘が結婚して子供を産まなかったら、私と夫の血はこれでオシマイなんだな、と、ある意味、逆に不思議でたまりません。当たり前に今まで血を受け継いできたことのほうが不思議なのかもしれません。

昔、高校の先生をしていた頃、よく生徒に「あなた達が今ここにいるということは人類誕生から500万年、ずっと遺伝子を受け継いでいるということ。あなた達が子供を持てばその歴史はさらに何万年と続いていく」と言うような話をしたことがあります。当たり前に続いていくと思っていたから「結婚したくない」とか「子供はいらない」と言う若い人たちに発破をかけていました。その時には、自分も子供がいたので、その先がないとは考えてもいなかったのです。

それはある意味奢りだったのかな、と今は思います。