何かを探さなくちゃ

長かった体調不良の日々から脱出できたと実感してまる一ヶ月が過ぎました。

この一ヶ月は正直ダラダラして過ぎたと思っています。

 

今年の私の収入は3月までで50万ほどでした。思ったよりありました。

去年は途中で扶養を外れて働きましたが、例年は 80万くらいで扶養の範囲で働いていました。

なのでワタシ的な減収は30万くらいってことでしょうか。

実際に、今年の4月からは 月24000円の仕事のハズでした。なので 今年度の減収は例年に比べると21万です。

これがいつもどおりの月8万で働いていると65万になるので、扶養から微妙に外れていまってたかもしれません。

実は10年前にかけていた一時払いの保険が満期になりました。本来は年金で受け取るタイプだったのですが、今年度の減収を考えて一括受け取りにしました。

受取額から保険料を引いて、一時所得の控除50万を引いて、その残りの半額に税金がかかるようですが、今年度の収入が少ないのでオッケーってことなのかな?

そう考えると、今年のこのタイミングでの無職は、まあまあ良かったのかもしれまえん。

毎回なのですが、私の収入が減るタイミングで夫が昇給したり、手当が変わったりしています。

実は今年も何故か夫のお給料があがりました。(夫は再雇用で働いている)

そもそもが、同じ職務をしているのに半額以下って納得行かない思いではいましたが、とりあえず現役時代の半額くらいにはなるみたいです。

と言ってもあと1年半で2度めの定年ですが・・・

昨日夫がうれしそうに「今度のボーナスはたくさんもらえるみたい」と。

正直、ここのところボーナスは現役の時の1/3でした。それが 1/2位もらえるらしい、とのこと。私はいつもどおり「ふ~ん」でしたが、娘は「お父さん頑張っていたからちゃんと評価されてよかったね」と言っていました。

あらためて私ってひどい妻だな、と。

悪かった時に相手を責めることはなかったけれど、良かった時に褒めることもない・・・

それは子どもたちの成績でもその通りでした。娘は高校時代、ほぼほぼ学年トップの成績でした。

定期テストだけではなく課題テストなどを含めて3年間で3回だけトップでなかったことがあります。そのうち1回は合計点ではトップだけど文系理系の科目の違いから偏差値平均?とやらで2位になった、というものです。

今から思えばそこそこの進学校だったので、メッチャすごいことだったのだと思いますが、一度も褒めたことないです・・・

夫の会社は某大手の関連会社ですが別会社です。でもその大手会社で何やら賞が新設された時、その第一回目の受賞者に選ばれたりしているのですが、その時も「へ~」でした・・・ 学会で賞をもらった、と言った時も「そっか」だったのですが京都で授賞式がある、と聞いて初めて「結構すごいのかも」と

それなのに、私は前回にも書いたとおり、家庭での夫に対しては不満ばかり・・・

息子も某大手企業の関連会社で30半ばですがとある営業所の所長だそうです・・・

娘は派遣で主にデータの入力の仕事をしていますが先日、頼まれて作ったプログラムを社員の人に絶賛されたようです。(娘は文系の大学出身)

 

 

私はいつも家族に対して不平不満だらけで、家事をするしか能がないくせに、その家事も手抜きで、そのくせに偉そうなことばかり言っていたのだな、と。

 

たかが扶養範囲内のパートでしかなかったくせにその収入ですら今はないのに・・・

そのくせして趣味で勝手に随分散財したものです・・・

私が死んだら保険金で3000万くらいはある、と言ってたけどそんなはした金では家族にはとても顔向けできません

幸い今はお金のかかる趣味もないし、そもそも普段の生活は質素だし

昔ほどの穀潰しではないけれど、でも「何かをしなくちゃ!」という思いは強いです。

 

たしかに私の「お金が欲しい」は何かをするために欲しいのではなく、ただただ、家族に残すために欲しい、なのです。

私は大学を卒業してそのまま結婚してしまったので、自分でお金を稼いでいません。それこそ生涯年収はパート代の2000万くらいです。

ちゃんと仕事をして働いていれば、女性でも2億くらいは稼ぐのでしょうか?

それができていない自分は本当にずっと「穀潰し」だと感じて生きてきました。

だから、そうではなかった証としてなんとしても家族にお金を残したいのです。

 

正直、これから年金生活になってもそこそこ暮らしていけるだけのお金はあります。でも、それはあくまでも「夫のお金」なのです。

どれだけ不平不満を言いながらも夫のお金で生活をせざるを得ないのです。

 

そこから抜け出すためには、どうしたらいいのか・・・

そろそろ、本腰を入れて探さなくては、と思っています。

40年・・・

夫と出会ってからかれこれ40年になります。

高校時代に断りきれずに、なんとなくお付き合いをした男性はいますが、自分の意志で付き合った初めての男性です。

その後、別に好きな人ができて一度は別れたのですが、なんだかんだでほだされて、就職するのが面倒だと思っていたところへ「専業主婦でいいから」と言うセリフにつられて、大学の卒業式の3日後に結婚式を挙げました。

付き合い始めた時からわかっていたし、一度別れた理由も別に好きな人ができたというのは確かですが

その好きだった人との違いの最大の理由も「優柔不断」でした。

 

結局、この性格は今に至るまでずっと変わりません。

その事でどれだけ怒ったり泣いたりしたけれど、結局、世間で言うところの「過去と他人は変えられない、変えられるのは未来と自分だけ」と言う言葉に落ち着くのでしょう。

でも、私は今でもあがき続けています。

「お願いだから、しっかりして!!!」って。

 

夫のこの優柔不断な性格のせいで、私はどれだけ怒り狂い、そして嘆き悲しんできたのか・・・

 

私は今もすべてを夫のせいにしたい気分です。

娘が摂食障害になった時、息子とその嫁がワタシ的に理不尽な態度で臨んできた時、その時に夫が防波堤、もしくは支えになってくれていたら私はこの地獄のような10年を過ごさなくてよかったのに、と。

いえ、そもそも結婚した当初からの夫の母親の暴言や理不尽な要求からも守ってほしかった・・・

結婚してから義母が亡くなるまでの15年間、本当にずっと胃痛に悩まされていました。耳鳴りが始まったのも私は義母のせいだと思っています。

義母が亡くなってから娘の病気に苦しむまでの5年間くらいが私の人生の中では一番幸せな時だったんだな、と改めて思います。

声優さんの追っかけをしたり、同人活動をしたり、自由に飛び回っていた幸せな時間って、たったそれだけだったんだ、と改めて驚きました。

 

今やっと娘も落ち着き、息子夫婦とも以前ほどはぎくしゃくもしておらず、夫も一応、定年・・・

私はパート主婦だったけれど、来年には定年、と言われる年になります。

期せずして2年ほど早く今年は楽になりましたが、ある意味、第二の人生を自由に謳歌してもいいのでは? と思ったりもします。

 

でも、夫が再雇用で働いてくれるのはありがたいけれど、でも専業主婦の私は夫が働く以上は主婦業卒業・・・しないまでも、手抜きも許されない気がしています。

 

子育ての最中、何を聞いても「わからない」の一言で終わっていた夫。

どうしたらいい? と聞いても「どうしよう?」と言われるだけ

でも、子育ては待ったなしなんです。わからない、では済まされないんです。だから私は必死になって一人で抱え込んできました。

それが子どもたちとの軋轢を生んでいても、私は本当に「子供のために良かれと思って」 「自分が正しいと思っていたことを」 押し付けてきました。

娘がおかしくなった後になって「あれはまずかった」と

それじゃ、どうして 父親であるあなたが防波堤になるなり、フォローするなりしてあげなかったの!!!

そう思った時に、そうだ、結婚してから義母の仕打ちに泣く私の防波堤になってくれたことなんて一度もなかったんだ、と気づきました。

 

夫は優しいです。私の母はいつも「仏様のような人だ」と言います。

夫が優しいのをいいことに母は夫を便利に使っていたし、私も便利に使っていたことは認めます。でも、肝心なことで家族を守り支えてはくれていなかったんだ、と

 

今は私も、夫の生育環境のせいであったのだろうと言うことは理解できます。

でも、私は「何度も訴えてきた」のです。

主には「これはしないで」と言う形でした。

でも、本当は「こういう時はこうしてほしい」という方が良かったのかもしれません。

私は我儘三昧の暴君に見えるかもしれませんが、実は長女気質で自分から「○○が欲しい」というのは言えない性格でした。一方、夫は末っ子だったので長子の感覚はわからなかったのではないかと思います。

夫は「言えば何でも」やってはくれたけど、言わなかったらまったく気づきません。私は常に我慢を強いられる長女だったので、相手から言ってほしかったのです。

私は夫に「やってほしくないこと」を言うのは簡単でしたが「やって欲しいこと」を言ってこなかったのだと思います。

実家が商売をしていたのでお休みが取れるのはお正月3が日だけでした。

正月の2日に私の母方の従姉妹たちが実家に大集合します。だから2日のお昼には実家に帰りたかったのですが、夫の実家に年末から泊まりです。

だから2日のできれば午前中、我慢してお昼過ぎには義実家を出たいのに、夫は黙って座っています。私は時計を眺めてソワソワしているのに「そろそろ失礼する」の一言を言ってくれません。

夫の姉夫婦は元旦から夫の実家に来ます。もちろん、義兄の家に寄ってからですが。

でも、娘は元旦から実家に帰れるのに、嫁である私は 2日のお昼過ぎても帰ることを許されません。

義兄は「もう、お暇しよう」と自分の判断で、義実家を辞する時間を決めます。そして義姉は「じゃ、明日また私だけで来るから」と言って帰っていきます。

あんなふうにスマート?にしたかったのですが、夫は私がもうすでに実家に帰りたくて泣きそうになっている顔をジロジロ見て(私が死ぬほど嫌いなのはこの、人の顔をジロジロ見る癖!!!!) それでいてすぐに私が帰りたがっていると気が付かないのか言い出すまでに時間がかかります。

私は子供の手前、夫に文句を言うことができませんでした。

子どもにとってはどちらも血のつながった祖父母なのだから、私が夫の母親の悪口を言うことはひたすら我慢していました。

子どもたちにとっても年の近い子がいない夫の家より、いとこ達がたくさんいる私の実家のほうが楽しかったとは思うのですが、子どもたちも本当にできの良い子達でわがままを言ったりDQNな発言をすることは一切ありませんでした。

私が「○○してほしい」と言ったのはこのお正月やそれ以外でも夫の家から帰る時に夫の口から「そろそろ失礼する」という言葉を告げることくらいでした。

私からすればお願いごとのできない私が心底心からお願いする数少ないことだったのです。

それすら言っても無駄なのですから、言えなくて不満が溜まりに溜まって行きました

 

その挙句の果ての娘の病気、そしてそれを起点とする私の体調不良・・・

 

正直、私が娘にとって「毒母」だったとしても、父親が支えてくれていたら摂食障害にまではならなかったのでは、と。

実際、カウンセリングを受けていて思ったのは、最終的に父親のフォローがいかに大切だったか、ということです。

沢山の方が入れ代わり立ち代わり親の会の参加していましたが、驚くほど似ていました。

自分を正当化するつもりはありませんが、娘が訴える、私の母としての未熟さ横暴さは私の母親の比ではないと思います。

でも、私は摂食障害にはならなかったし、グレたりもしなかった

その一つの要因は父親や周りの環境もあるのだと思います。

正直、私は娘がおかしくなった時も 甘えていると思いました。それは単に気質の違いだったのでしょうが、「私はもっとひどい目にあっていたのに・・・」って思っていました。

でも、実際は「周りの環境がもっと違っていた」ということなんだと思います。

過去の私には逃げ場があったのに、娘にはそういう環境がなかった・・・

そういう存在に父親である夫がなってくれなかったのだ、と・・・

もちろんこれは私の八つ当たりです。

必死になって子供のために時間も労力もお金もかけてきた私が娘や息子から糾弾されて、何もしなかった夫が何の非難も浴びないなんて・・・

あれで許されるなら何を言われても「わからない」 「できない」で通せばよかった・・・

 

夫はおそらく、いろんなことに執着しないタイプなんだと思います。

だから私のような執着タイプのことは理解できません。

おそらく、この先もずっとそうなんでしょう・・・

 

40年・・・ 長いようで短く、そしてこの先も 20年、30年の付き合いが続くのでしょう。

「もういい加減、諦めなよ」

母や妹にそう言われ続けて20年が過ぎました・・・

期間を区切って

久々に霊能力のある先生に鑑定をしていただきました。

まずはお嫁さんのこと。以前も大丈夫とは言われていたものの、お嫁さんが数値が良くないと心配していたのでまた聞いてみました。

そしたらやはり、大丈夫、というお言葉をもらいました。先生は感情が見えないそうなので、その人の気持ちでブレる部分はあるかもしれないけれど、体とか気のようなもの?は悪くない状態だと。気持ちのせいで体調が悪くなることはあったとしても、身体自体は良い方へ向かっているのだと。

私自身のことも聞いたら「今このご時世では仕方ないこと」と言われました。

私の「余力」がありすぎることで、考えなくても良いことやいらぬ心配に力を使っているのだそうです。

人間は自分の力の70~80%を使って普段生活しているが、私の場合、今はすることがなくてなのか50%を切っているそうです。でも40%の前半まではいっていないのでちょっと刺激を与えるだけですぐに50%には回復して、50%を超えてくればそれほど心配することもないそうです。

本当は外に出るのが一番だそうですが、今を基準に生きるとそれができないかもしれない。それなら「半年後」とか期間を区切って先を見据えて考えると良い、と。

もしくは今の状態が、「今だけの状態」と認識して「日常」にしないこと、と。今を当たり前にしてしまうとここから抜け出すのが困難になるというお話に、なるほど、だから「おこもり」が快感になっているんだな、と。

今はコロナだから仕方ない、仕方ないことに焦る必要はない

でも、それは「今だけのこと」として、その先に何ができるか、何をしたいかのビジョンは持っておくべきだということでしょうか。

先生は来年の3月にはすべてが変わっている、と言っていました。全世界的な流れとしてだそうです。

来年の3月から再来年の5月にかけて大きく変動する、と。

だから、これを見越した生活をしていけば、今のような出口の見えないような生活からは脱出できるのかもしれません。

 

せっかくやる気になっていた交流分析もカラー心理学も つい「この年になって学ぶことに何の意味があるんだろう」ってものすごく落ち込む波が来ていました。

でも、来年の3月以降であれば、使えるかもしれません。

この4月に一旦、非常勤講師の仕事を辞めましたが、来年度はあるかもしれないという話は聞いていました。ただ、自分の気が落ちていたので「オファーがあっても もうやりたくないな」と思っていました。

断捨離もしなくちゃいけないから、そろそろ膨大な量の資料も処分してしまおうか、とも。

でも、ちょっと待とうかな・・・ せっかく、交流分析、色彩心理を学ぶんだから、それを授業にも生徒との交流にも活かせるかもしれない、と思います。

ここ最近の娘との会話というか、やり取りで、しんどい思いもしましたが、自分の心癖やら相手が何を考えているかを考えながら自分を見つめることもできているように思います。

やっぱり、頑張るしかないか・・・(笑)

そう、私は永遠に「ねばならない」から抜け出せないのなら、「やらなくちゃいけない」からもう少し主体性?のある「やるっきゃないね!」にしようと思います。

そう「楽しむこと」を 自分が楽しいと思うことをする、といいと先生もおっしゃったし。

変更なんていくらでもできるんだ、と。

「嫌だと思ったらやめる」それだけのこと

 

とりあえず、今の過ごし方として「外に出て刺激を受ける」 それが駄目なら「家の中のことでもやり方を変える」 「普段やらないことをやる」と50%を切っていた気力が戻ってくるそうです。

 

久々にピアノかお琴でも・・・と思ったら娘がリモートワーク中・・・(笑)

ずっと絵が描けるようになりたいと思っていたけれど、デッサン力がないから駄目と諦めてました。でも落書き程度なら好きに描けばいいんですよね?

そうだ、あれもこれも勝手に自分でストップを掛けていたってこと。

 

「やりたければやればいい」

「嫌になったらやめればいい」

「自分が楽しいと思うことをする」

それだけの事

 

・・・それだけの事だったんですね・・・

眠れない・・・

久々に眠れない状態になっています

最近は10時より前にベッドに入って日付が変わるまでにはねていました。

でも今日は10時半にベッドに入ってそのまま気がつけば1時近くです。

眠れない原因は色々あるのですが、やっぱり精神的なものが大きい気がします。

眠れないなら本でも読めばいいのについスマホを見てしまって目が覚めて、挙げ句、1階にホットミルクを飲みに来たついでにPCを立ち上げてしまいました。

ザラッとネットサーフィンして、これは本格的に眠れないぞ、と焦ったりもします。

ここのところ、入眠の役に立っていたCDを聴くだけで気分が落ち込んできました。

つい最近までとても穏やかな曲で優しくて好きだなぁって 思っていたのに・・・

ここ2~3日ちょっとさみしいな、と思うようになり、今日はなんとも言えない寂寥感と言うか不安感に襲われました。

精神が弱っているせいだとは思います。

でも、今日の気分がかなり強く印象漬けられてしまったので、今後、このCDを聴くたびにこの寂寥感に襲われる気がします。

せっかく調子が良かったのに残念です。

 

眠れない・・・でもここのところとってもたくさん寝ていたから、1日や2日なら大丈夫な気もします。

ここ3日ほど予定が詰まっていて、それが気がかりなのもあります。

でも、その気がかりが過ぎたら毎日が日曜日なのだから、いくらでも体を休めることもできるはず・・・なんですが、実は年末大掃除のことが気になっていて

ずっと今年こそはきちんと片付けるぞ、って思っていて

今年は仕事をしていないので余計きちんとしなくちゃって思いが強かったのです。でもそれがうまく行かなくて、焦る気持ちもあります。

お盆から顔を出していない実家にも一度行きたいと思ったいたけれど、この調子だと来週の頭に行ければ御の字ですが、でもまたコロナが大流行してしまっているのでおこもり生活に戻りそうです・・・

それがまた憂鬱の原因かもしれません。

 

さて、何をしよう・・・ とりあえず、明日というか今日は娘は出勤なのでお弁当を作らなくちゃいけません。なんとか眠れるようにしなくちゃ・・・

気が付かなかった・・・

先月の30日、家の前の3段の階段を踏み外してコンクリートの駐車場に転がり落ち右手と両足に結構な擦り傷を負いました。

Go Toで歩きすぎて、足がとても痛かったけれど、逆に膝はあまり痛くなくなっていた、と思っていた矢先の出来事でした。ころんだ瞬間は右足をひねった感じで足が動かないかも!と思ったのですが、たまたまリモートワークで家にいた娘が飛んできて見てくれたら、右手の手のひらの皮が大きくめくれ、右手首に擦り傷・・・ で、娘が絆創膏を取りに行っている間にズボンをまくりあげたら両膝がかなりひどい擦り傷になっていました(ズボンも穴が空いていた・・・)

ちょうどお嫁さんの医者の送り迎えに行くところだったので、応急処置をして飛んで行き、その後家に帰ってから、氷でかるく冷やしたりして、それからしばらく大人しくしていました。

主に、擦り傷の湿潤療法で、目につく右掌に注目していたのですが、なんとか1週間位で両膝の擦り傷もふさがり、右掌の傷も日曜日に絆創膏いらずになりました。

しかし・・・とにかく右膝が怪我ではない感じで痛くて痛くて、きのうやっと怖い先生の整体へ行ってきました。

そしたら、膝の内側が腫れている、と。私は前の膝のぶり返しかと思っていたのですが、結局、新たに転んだときの影響みたいです。膝の施術をしてもらって腰と肩の電気を受けている時に、ふと見ると右手の小指が異常に太い・・・ で、先生に「なんだか右手の小指が太い気がするんですが・・・」と言うと見てくれて、小指だけではなく右手全体が腫れている、と。

その時も私は原因がわからず「普段、ネットして遊んでいてマウスに右手を置きっぱなしだからかもしれません」と言って帰ってきました。

家に帰って、夜、家族に右膝の内側が腫れているらしい、と言ったら「ちょっと待った、右の足首も腫れているよ」と。両足を比べてみると本当に明らかに右のほうが太い・・・

で、娘が「この間怪我した時、右足をねじったって言ってたじゃない」と。そして右手の腫れも「ころんだ時に右手を着いたのが原因じゃないの?」と・・・

そっか・・・ 右手のひらの傷が治っていたので、すっかり忘れてました・・・

忘れていられる自分に驚きました・・・

全部 30日に転んだせいだったんだ・・・ 

原因と結果を結びつけることができないってどうなってるんでしょう?

とりあえず、今更ながらですが湿布薬を貼り、おとなしくすることにしましたが、今だからこそこれで住んでいますがもっと年を取ったら骨折ってこともありうるし、そのまま寝たきりコースもあるかもしれません。

以前から怖い先生には「丁寧な生活を試みること」って言われていましたが、早速娘に「お母さんはやることが雑!」って立ち居振る舞い全てに文句を言われています。

 

少しは懲りるべきかもしれません・・・

 

目に見えるもの

私は想像力、イマジネーション、インスピレーション、と言った「不確実」なものが苦手だと思います。

と言うか、形のないものが理解できません。

いつ漠然とした不安を持っている気はしていましたが、その漠然とした不安というのが「想像」ではないのか、と言えば、おそらく私にとっては「どこかで見聞きした出来事」がベースになっていいます。だから、それは実際にあった出来事、なのです。

例えば、私の母の友人の話ですが、息子がいつも遅くに帰宅してお風呂に入るのですが、ある時、あまりに出てくるのが遅いので見に行ったら、お風呂が沸騰していて、その中で息子がぐったりしていた、慌てて引きずり出したけれど息子は息絶えていた、と。正直なことを言えば、それだけなら、新聞とかテレビのニュースで見たのと同じで「もしかしたらそんな事故もあるかもしれない」と普通に受け止めるのですが、そのお母さんが無我夢中で息子を湯船から出したので両腕の皮がめくれるほどの大やけどだった、と。その時は熱いも何も感じる余裕すらなかったらしいんだけどね、と・・・

それを付け加えられたことで、母の知り合いに現実に起こったこと、と強烈にインプットされてしまいます。あと、私が高校生くらいの時に家でアルバイトしていたお兄ちゃんが離婚して一人暮らしをしていたのですが、いつもは正月前に帰ってくるのに、その年は帰ってこなかった、でもそういうこともあるか、と思って、見には行ったものの、大家さんに「いくら親でも勝手に鍵を開けることはできないので、どうしてもなら警察に行ってくれ」と言われて、「まあ、今までもそうだったからどこかに行っているかも」とそのまま帰宅したそうです。でも正月4日過ぎに彼の会社の上司から、出社していないが・・・と親に問い合わせがあって、あらためて訪ねたらすでに冷たくなっていた、と・・・彼は私より1歳年上で我が家で2~3年働いていたのでかなりショックでした。こういう事が本当に近くであるんだ、と

なので、私の悪い想像はいつも「現実にそういう目にあった人がいる」と言う既成事実になってしまうのです。で、あとは悪い癖で悪いことばかりを強く覚えているので、やたら心配ばかりになります。

今回の体調不良もコロナに関しては3月早々に母が一緒にシルバーのお仕事をしていた人がクラスターの一人で亡くなっているのです。本当に身近な話だったのでコロナに対する恐怖も「現実問題」になっていました。

 

去年の11月に細菌性の肺炎になった時、お医者さんがパルスオキシメーターの数値を見て「これは相当不味い」と判断しました。私はかつて、今から思えば過換気症候群になったことがあるのですが、その話を看護師の友人にしたところ、彼女もパニック障害過呼吸を起こすことがよくあるそうで、「専門家の立場として、わかってはいるのに、どうにもならない、なので『パルスオキシメーター』を買ってヤバイと思ったらすぐにそれで測って”客観的な数字”を確認して自分を落ち着かせるようにしている」とそう言っていました。なので、コロナが話題になったと同時くらいに私もそれを買い込みました。 数値が96以上なら正常で普通の人はだいたい98~99くらいみたいです。なので96あればとりあえず、安心できるのです。実際、呼吸が苦しい、と感じて測ってみると97くらいのこともありました。十分正常値なのですが、私の場合は97でちょっと焦ったりはしていましたが、でも、かなり息が苦しい、と感じても97なので、だんだんと落ち着いて来ました。

その後、血圧が気になって昔からある血圧計を引っ張り出しては計るを繰り返していました。人によっては血圧にしても体温にしても測りすぎて心配するのはよくない、と言う人もいるかも知れません。

実際、私の体調が悪かったときはどちらもが高くて、その数字を見るたびにさらに体調不良になっていた気がします。

しかし、ウォーキングを始めてから、体温も血圧も安定してくると、その数値が保証のように感じられるようになりました。

前に書きましたが、血液と尿検査をしてその結果が「驚くほどきれいな数字」と言われ、そのデータを貰った途端、また一段と体調が良くなってきました。

その後、特殊外来で先生がO-ringで診断して、その結果の紙をくれたりしているうちに客観的に見ることができるようになりました。そして、その先生の治療は、一旦卒業、と言う段階にもなりました。実は1週間くらい前に「スマートウォッチ」を買って使っています。ここしばらく私は睡眠の状態が悪くなっていたので、睡眠のチェックができる機能のものを買いました。実は体温も自動的に測れるものを買ったつもりが直前でタイムセールをしていたものがお得に見えて、うっかりそれを確認せずにポチってしまいました(涙) なので、体温は今まで通り、家の体温計で測っています。

で、この睡眠記録ですが、正直、イマイチ納得いっていませんでした。夜の10時~朝8時まで自動計測するものの、寝入り時間が24時間設定の 0時以降になるみたいで、例えば11時ころにはベッドの中で、いつもたいてい寝てから1時間~2時間ごとに目が覚めるので1時頃に目を覚ましてトイレに行ってその後寝た時間、1時半頃が「寝入り時間」になっています。そして1~2時間毎に目が覚めてだいたい5時には完全に覚醒はするものの、なんとか6時半頃までベッドでおとなしくしています。そうすると「起床時間」が6時半になっています。その間に3回位起きていることになっていますが「深い睡眠2時間」 「浅い睡眠3時間」 合計睡眠5時間 睡眠の質「ふつう」

ええええ~~~!! 眠れなくて何度も睡眠誘導CDかけたりしてたのに!! 

って思っていたのですが、そこが不思議なところで眠れなくてのたうっていた時間も「浅い睡眠」認定なんだ、と数字を見て騙されて?いる自分がいます。

その蓄積か、京都旅行が効いたのか、今朝の数値は 「深い睡眠5時間、浅い睡眠4時間 、合計9時間」・・・

どうやら寝入り時間の前の「前段階」(昨日は9時半にベッドに入った)も合算されるようで私の感覚では寝たのが11時半過ぎ、起きたのが5時半(その後1時間位ベッドでおとなしくしていた)だったのですが9時間も寝ていることになっていました。そしたらなんだか急にものすごく健康になった気がしてきました。

まさに数字のマジック? 客観視のマジック?

実は京都で高台寺だったかで入る前に体温チェックをされました。いつも「はい、大丈夫ですね」で実際に何度だったかわからなかったので、その時は「何度ですか?」と訊いたら「35.8度です」と

ここのところずっと家で体温を測ると午後には必ず 37℃前後になっていました。うちにある体温計は オムロンシチズンなので(念の為に2つで計る心配性・笑)信頼性が高いと思っていて、いつも落ち込んでいました。

それが35.8・・・ホッとしたものの、あのピッて計る体温計は当てにならないのかも、とか思っていました。でも、昨日、インフルエンザの予防接種のために病院ではかってもらった体温も午後4時過ぎで 36.3℃。「あ~、なぁんだ~~」と拍子抜けした気分です。

スマートウォッチで心拍と血圧は自動計測にしてあり、問題のない数値で推移しています。ちゃんと動いた時には高くなっているのでそれほど間違はないと思います。

なら、睡眠も脳波が休んでいるかは別として体はちゃんと休んでいる状態にあるんだな、と安心できます。安心すれば自律神経も整ってくるように思います。

 

そして、今さっき、スマートウォッチが激しく震えました。

「座りすぎ防止アラート」の発生です。そう、ずっとPCにかじりついて遊んでいたので叱られたワケです(笑)

しばらくは、これを信用して体調を整えていきたいと思っています。

Go to トラベル

今までさんざっぱら、このブログで「おこもり生活」を強調してきたので、私がGo to トラベルを利用することなどないと誰もが思っていると思いますが

 

実は1泊で京都に行ってきました。

娘が大阪のお隣の県の「農業研修」の説明会に行く予定をしており、時間的にお泊まりでないといけないので、Go to トラベルを利用していってくる、と

超過保護の私は、娘をそんな遠くまで送り出すのが心配で、2日目はいいけれど1日目は一人でどうやって過ごすのだろう、大丈夫だろうか・・・と、まあ、毎度毎度の心配漬け

で、それならシングルよりもペアのプランのほうが割安だし、私もついていこう、と

かくして慌ただしく申し込みをして出かけることになりました。

とは言え、私のコロナ恐怖は、使命感とも相まって対策に力を入れることに。

携帯型のイオン発生機を買って常時これを首から下げていました。

行きの新幹線では通路を挟んで真横のお姉ちゃんたちがずっとものを食べながらしゃべくり続けていたのがストレスでストレスでたまりませんでした。食べ終わってからもマスク無しで

帰りの新幹線では電光掲示板に何度も「飲食は避けて、おしゃべりも控えるように」というようなアナウンスが流れていました。行きにはなかったのですが、もしあったとしてもドシャベのお姉ちゃんたちが見ているとは思えなかったかもしれません。

京都に着いて当初の予定では結構ギリギリのトロッコ列車を予約しておいたのですが娘が時間的に危ない、というので1時間後のにしました(1時間に1本)

そして、馬堀まで行って亀岡から嵯峨野へ戻り、嵯峨野を自転車で回る、と言うのが当初の予定でした。しかし、12時半の列車までに時間があるからなにか食べようにも馬堀駅の周辺にはコンビニしかありませんでした・・・(涙) しかたなく、コンビニでパンを買って駅で食べ、トロッコに。紅葉の季節ではなかったのは残念でしたが、それなりに楽しめました。嵐山で降りる人が多かったけど、私は自転車が嵯峨野駅前、となっていたので終点まで行きました。しかし、歩いても大したことないんじゃない?と娘が言うので結局、嵐山まで歩くことに・・・実際大したことはありませんでした。

嵯峨野から嵐山に歩く道すがらでベーコンエッグのタイヤキを食べて、これがメッチャ美味しかったのが唯一の収穫でした(笑)

天龍寺をめぐって竹林を散策して渡月橋を渡って法輪寺を見て渡月橋に戻ると京都駅行きのバスがあったのでこれにのりました。

これが大失敗だったのは1時間近くかかったこと。運良くギリギリで一番うしろの席に座ることができたのですが、私の前の席にいたお兄ちゃんが何度も咳き込んでいました。窓は私の隣しかあいていなくて反対側は閉じていました。なので、空気の流れは全部わたしの所に来るの?と心配に・・・ 携帯型のイオン発生機には紫外線照射の機能もついていたので、お兄ちゃんが咳をするたびに、とりあえず自分の目の前は紫外線照射・・・ でも、その間はイオンは出ないし・・・ 何度も切り替えるのが負担でした・・・

夕飯はお店で食べるのがやはり不安だったので京都駅でお弁当をクーポンで買いました。電子クーポンが発行されていたので、これが中々使い勝手が悪かったです。

実は石山駅にいつも妹が利用するお気に入りのお店があったのですが、ここは紙クーポンしか使えず諦めました。結果としてお弁当でしたが、でもこれが結構おいしかったです。しかし、なんと容器がしっかりメのプラスチック。捨ててしまうにはもったいない

・・・でも二段重・・・かさばる・・・ 結局、それを洗って化粧品を布製のポーチから出して詰めたら1個はピッタリ入りました。もう一個のお重には小物を入れたらこれも誂えたようにピッタリ。なので、リュック(娘が少ないほうがいいから、と)に無事に収まりました。とは言え、このリュックが結構重くて次の日の一人観光では結構しんどかったです。お財布と携帯が入る程度の肩掛けカバンを持っていったので、リュックの方は宅配便で送ってしまえばよかった、と本当に後悔しました・・・

ホテルは狭かったけれど、ベッドは広いし、ホテル自体が新しいみたいで全般的に感じが良かったです。初日は万歩計では21000歩でした。

翌日は娘が8時過ぎに研修に出かけてしまったので、私は9時頃までのんびりして、どこへ行くかもまだ決めていない状況でした。

娘の帰りの電車の都合で帰りは新大阪からなので、京都から大阪への移動も考えなくてはいけません。それを阪急電車の「京とれいん」の最終が四条河原町を4時41分発でした。(駅に着くまで4時54分発だと勘違いしていました・汗) 和モダンな列車で、これが特別料金無しで乗れるらしく、出発の20分くらい前なら座れる、と書いてあったので4時半には四条河原町に着く、という予定だけをざっくり立てて、とりあえずホテルを後にして京都駅にインフォメーションへ。

三十三間堂清水寺くらいかな、と相談したら、まず三十三間堂までバスで行って、その後、バスで清水寺まで行ってそこからは散策がてら祇園まで歩けば、祇園から阪急までも歩ける距離、と。だからバスの乗車は2回ですみます、とのことでした。1日乗車券が600円なので3回乗れば元が取れるけど必要ないかな、と。

で、早速、三十三間堂を見学して、この時、ものすごく迷ったけど、とりあえず普通に230円を払って、この後、バスに乗ってすぐ、次のバス停で 智積院が近い、というので慌ててここで降りることにして、この段階で1日乗車券を買うことに・・・ でも、これでも結局2回で澄んでしまうかかも・・・とまたまた後悔・・・ 智積院の前に近くにあった神社に行き、北門から入りました。チラッと三十三間堂が見えたので、そっか三十三間堂に行ったら、そのまま歩いて智積院に行けばよかったんだ、と・・・ う~ん・・・

さて、智積院は実は何回か行ったことがあったな、と中に入ってから気が付きました。三十三間堂もなんだかんだで4回目か5回目でしたが、小学校の修学旅行で初めて行った時に感銘を受けたせいか、また行きたい、という気持ちが強かったです。

それからバスで五条へ、向かうバスに乗って、その瞬間、カメラがないことに気が付きました。何度も何度もかばんもリュックもひっかきさばいたけどない!

慌ててバスを降り、反対方向のバスに乗り換えました。すぐにバスが来るのはありがたかったです。バスの運転手さんに落とし物をしたらどうしたら?と聞いたら、バスの中だったらこの路線なら九条の営業所、道だったら交番へ、と

ああ、どうしよう、と思いながら運転手さんの横で前方を見ていると、智積院の前の横断歩道近くにピンクの物体が落ちていました。「あ、ありました!!」と叫んでました・・・ 行きと帰りのバス停は結構離れていたので、かなり通り過ぎたバス停でしたが、必死に走って戻ると無事に拾い上げることができました。

おそらく、往復で30分程度だったと思います・・・ ああ、でも、おかげで清水に行くまでに結局バス3回乗ることになり、1日乗車券を活かせることができました(笑)

なんだかんだあって五条で降りて茶わん坂を登って清水寺へ。清水もやはり4~5回は行っている気がします。最後に行ったのは門の修復が終わった直後で、あまりに綺麗すぎて逆に違和感がありました。あれからすれば少しばかり色あせて来ていましたが、昔々のことを思えばカラフルでした。ここで写真が取りたかったのですが誰かに頼もうにも皆さんスマホばかりで・・・普通のカメラを持っていった私はここで15分くらいウロウロすることになりました。

でも諦めて清水の本堂へ。舞台は修復中でした。わかっていましたが、逆に修復中、というのもある意味珍しい機会かな、と思ってあえて出かけました。ここで高校生っぽい男の子がカメラで写真を撮っていたのでお願いして撮ってもらいました。

娘は自分の入った写真は嫌いだといいますが、私はお出かけしたらちゃんとその場で自分のいた証拠が欲しい人です。ただ、写真を撮ってもらうために長時間ポーズを取るのが嫌いなので、ちゃちゃっとシャッターを切ってほしいのですが、ダンナさんは昔からグダグダ時間をかけて中々撮らない人で、イライラしてしまい、いつも不機嫌な顔ばかり残ってました。今はデジタルなのでその場で確認できますが、昔のフィルム式のときは出来上がった写真でメッチャふてくされた自分の姿を見ては落ち込んでいました。結婚25周年で二人で中欧に行った時、同年代の子供のいないという夫婦は夫がビデオ、妻がカメラと決まっていていつもふたりで撮り合っている、と言ってて、メッチャ羨ましかったです。どちらかが「はい」と言えば撮る方も撮られる方もさっと準備に入ってさっと取り終わる、私の理想がそこにありました。

あれから数年、あの夫婦が羨ましかったとどれだけ言ったかしれませんが、改善されることはありませんでした。

この段階でお昼を過ぎていて、食べるものをどうしようか迷って、とりあえず「外」の風通しが良いという理由で音羽の滝の隣のお店で月見うどんを食べました。この内容で800円・・・は街で食べたらありえないけれど、まあ清水のご利益ということで・・・

さて、清水から二年坂三年坂を下って高台寺へ行くことにしました。利生堂と霊山観音をまわり、利生堂で簡単な写経をしてやっと高台寺へ。高台寺もたぶん3回目くらいです。ここを出たら3時でした。そう言えば利生堂の人が3時からアンドロイド観音の説法があります、と言っていたので、ここまで来たら聞いていこうか、と行ってみました。

ロボットの観音様?が般若心経の「空」について話をしてくれてましたが、正直、声がイマイチ好みではなかったのと、内容にもう少し深みがほしいな、と思ってしまいました。これが偉いお坊さんの言葉だったらありふれたお話でもありがたく聞けたのかもしれませんが、ここが機械を軽んじているせいなのでしょうか?

ただ、私は機械に関しては、初恋がモノクロのサイボーグ009のジョーなので(笑)昔から色々感慨深いものはあります。銀河鉄道999や清水玲子さんの漫画にも胸を打たれるものがあり、観音様がロボットと言う発想もなくはないとは思うのですが・・・

さて、そんなこんなでここを出たところで3時半近くになりました。これはもう四条河原町に行くためにバスに乗ったほうが・・・と思ったもののバス停がわからず 

とにかく皆が歩く方へと歩いていくと円山公園・・・かな? 前に妹たちとお花の野外展示があったのを見た覚えがあります。そこから左に曲がって行くと鳥居が見えました。

ひょっとかしたら八坂神社? と思ったらビンゴでした。

ここをお参りしてとにかくバスの走っている道路へ。バス停があって京都駅行きのバスに乗りました。(京都のおみやげを買いたかった) しかし、そこで地図を見たら京都駅まで30分くらい、と そこからまた四条河原町に行くとなると確か、地下鉄で10分くらいだった気がします。慌てて2つ先くらいでバスを降りて反対側のバス停へ。そしたらちょうど四条河原町を通るバスが来ていたので乗りました。この段階で5回バスに乗ったことになりました(笑)

私の乗りたい京とれいんの案内では「四条河原町」で降りる、とありましたが、その手前のバス停が「阪急四条」とかで、もしかしてここのほうがいいのでは?と

そもそも八坂神社から乗ったバス停が「祇園」でした。ここはメッチャ道路も、歩道も混んでいてもしかしたら、祇園から素直に歩いていたほうがお土産が買えたかも、と後悔しきり。

なにせ、お嫁さんちへお土産を買わなくちゃ、とその気持ばかりがあったので。四条河原町でおりると高島屋さんが目の前だったのですが、色々ありそうだと思ってまたうっかり阪急四条まで歩いてしまいました。でもお目当ての「お漬物屋さん」ぽいお店はなくて結局また高島屋に行って地下の食品売り場で千枚漬けを買いました。そのまま阪急の乗り場に行けるはずと思ってたのに、うっかり1階に出てしまって、お店の人に聞いたら、また地下に戻って連絡通路へ・・・ なんて無駄ばかり!!

そうして4時30分近くにホームに入るとすでに京とれいんは停まっていて、一番お目当てだった車両は満席でした。次のお目当ての坪庭のある車両にたどり着くと、その真ん前の席が空いてたので座りましたが、実はここは畳風で実はむしろ?ぽくて、正直、硬かったです。他の座席はやわらかシートみたいだったし、仕切りがあるけどここはフラットなので、僅かな隙間におじさんが滑り込んできて「密」になってしまいました。

そして、前が「坪庭」だから向かいに人がいなくていいや、と思っていたのですが、次の駅で満席だったので、その坪庭の前にオバサンが3人・・・ まあ、すぐに見飽きてはいましたが この列車は「普通列車」なので座席指定もなく普通に満員にもなりうるわけで、列車の中の景色などわからなくなりました(笑)

さて、席についてから私が54分発だと思っていたこの列車が41分発だったと知り、もし、20分前にはついていたほうがいい、と言うレビューを見ていなかったら乗り遅れる可能性もありました。良かったです。

もちろん、帰りの新幹線には十分余裕があったのですが

大阪梅田には5時50分くらいに着きました。娘が6時17分に大阪に着くことになっていました。新大阪で待ち合わせていたのですが(新幹線は8時位ですが)食事と GO TOの電子クーポンを使えるところが意外になかったので 大阪で降りるように、と連絡をしました。私は梅田についてから娘が来るまでにかなり時間があると勘違いしていて、梅田は人が多いから、時間つぶしに梅田スカイビルで時間を潰そう、なんて考えていました。

実は京都では三十三間堂と清水に行くだけのつもりだったので、それは1時間前の「京とれいん」で梅田に着けるな、と思って、その場合は人混みを避けるために展望塔で時間を潰そうと思ってのプランでした。でも、それをすっかり忘れて「梅田についたらスカイビル」だけが頭に残ってしまっていました。

で、グーグルのナビを使って歩き出したのですが、ちっともたどり着けなくて、気がついたらJRの大阪駅に。時間を見たら6時過ぎ・・・ ここでやっと娘があと数分で大阪に着くんだと気づいたのでした。

それがわかっていたらメッチャ痛む足をひきずってスカイビルなんて目指さなかったのに・・・ いやむしろ、着かなくてよかった(笑)

娘は研修で一緒になった人と4人位で電車に乗っていたようでラインをしても通じなくてライン電話したり、普通に電話したり・・・でやっとラインに気づいて大阪で降りると連絡が付きました。

やれやれ・・・ かくしてここでお弁当を買って食べて辻利でクーポン使って7時には新大阪について結局、ホームで1時間ほど時間を潰して無事に乗り込みました。

帰りは周りみんな静かな人で助かりました。歩いた歩数は24000を超えていました。

 

正直足が痛くて歩けないくらいでした。でも、これがいつもの私のフリープランの過ごし方だと思い知りました。とにかく、ギリギリまで詰め込むのが好きです。ガッツなので無理が聞いてしまうのです。いつだったかの東京旅行のときも確か30000歩くらい歩いた記憶があります。

もっとゆったりできたら、と思う反面、ミスが無ければ&お土産の心配がなければ&GoToのクーポンの縛りがなかったら もっと色々行けたのに、と思ったりもしています・・・