40年・・・

夫と出会ってからかれこれ40年になります。

高校時代に断りきれずに、なんとなくお付き合いをした男性はいますが、自分の意志で付き合った初めての男性です。

その後、別に好きな人ができて一度は別れたのですが、なんだかんだでほだされて、就職するのが面倒だと思っていたところへ「専業主婦でいいから」と言うセリフにつられて、大学の卒業式の3日後に結婚式を挙げました。

付き合い始めた時からわかっていたし、一度別れた理由も別に好きな人ができたというのは確かですが

その好きだった人との違いの最大の理由も「優柔不断」でした。

 

結局、この性格は今に至るまでずっと変わりません。

その事でどれだけ怒ったり泣いたりしたけれど、結局、世間で言うところの「過去と他人は変えられない、変えられるのは未来と自分だけ」と言う言葉に落ち着くのでしょう。

でも、私は今でもあがき続けています。

「お願いだから、しっかりして!!!」って。

 

夫のこの優柔不断な性格のせいで、私はどれだけ怒り狂い、そして嘆き悲しんできたのか・・・

 

私は今もすべてを夫のせいにしたい気分です。

娘が摂食障害になった時、息子とその嫁がワタシ的に理不尽な態度で臨んできた時、その時に夫が防波堤、もしくは支えになってくれていたら私はこの地獄のような10年を過ごさなくてよかったのに、と。

いえ、そもそも結婚した当初からの夫の母親の暴言や理不尽な要求からも守ってほしかった・・・

結婚してから義母が亡くなるまでの15年間、本当にずっと胃痛に悩まされていました。耳鳴りが始まったのも私は義母のせいだと思っています。

義母が亡くなってから娘の病気に苦しむまでの5年間くらいが私の人生の中では一番幸せな時だったんだな、と改めて思います。

声優さんの追っかけをしたり、同人活動をしたり、自由に飛び回っていた幸せな時間って、たったそれだけだったんだ、と改めて驚きました。

 

今やっと娘も落ち着き、息子夫婦とも以前ほどはぎくしゃくもしておらず、夫も一応、定年・・・

私はパート主婦だったけれど、来年には定年、と言われる年になります。

期せずして2年ほど早く今年は楽になりましたが、ある意味、第二の人生を自由に謳歌してもいいのでは? と思ったりもします。

 

でも、夫が再雇用で働いてくれるのはありがたいけれど、でも専業主婦の私は夫が働く以上は主婦業卒業・・・しないまでも、手抜きも許されない気がしています。

 

子育ての最中、何を聞いても「わからない」の一言で終わっていた夫。

どうしたらいい? と聞いても「どうしよう?」と言われるだけ

でも、子育ては待ったなしなんです。わからない、では済まされないんです。だから私は必死になって一人で抱え込んできました。

それが子どもたちとの軋轢を生んでいても、私は本当に「子供のために良かれと思って」 「自分が正しいと思っていたことを」 押し付けてきました。

娘がおかしくなった後になって「あれはまずかった」と

それじゃ、どうして 父親であるあなたが防波堤になるなり、フォローするなりしてあげなかったの!!!

そう思った時に、そうだ、結婚してから義母の仕打ちに泣く私の防波堤になってくれたことなんて一度もなかったんだ、と気づきました。

 

夫は優しいです。私の母はいつも「仏様のような人だ」と言います。

夫が優しいのをいいことに母は夫を便利に使っていたし、私も便利に使っていたことは認めます。でも、肝心なことで家族を守り支えてはくれていなかったんだ、と

 

今は私も、夫の生育環境のせいであったのだろうと言うことは理解できます。

でも、私は「何度も訴えてきた」のです。

主には「これはしないで」と言う形でした。

でも、本当は「こういう時はこうしてほしい」という方が良かったのかもしれません。

私は我儘三昧の暴君に見えるかもしれませんが、実は長女気質で自分から「○○が欲しい」というのは言えない性格でした。一方、夫は末っ子だったので長子の感覚はわからなかったのではないかと思います。

夫は「言えば何でも」やってはくれたけど、言わなかったらまったく気づきません。私は常に我慢を強いられる長女だったので、相手から言ってほしかったのです。

私は夫に「やってほしくないこと」を言うのは簡単でしたが「やって欲しいこと」を言ってこなかったのだと思います。

実家が商売をしていたのでお休みが取れるのはお正月3が日だけでした。

正月の2日に私の母方の従姉妹たちが実家に大集合します。だから2日のお昼には実家に帰りたかったのですが、夫の実家に年末から泊まりです。

だから2日のできれば午前中、我慢してお昼過ぎには義実家を出たいのに、夫は黙って座っています。私は時計を眺めてソワソワしているのに「そろそろ失礼する」の一言を言ってくれません。

夫の姉夫婦は元旦から夫の実家に来ます。もちろん、義兄の家に寄ってからですが。

でも、娘は元旦から実家に帰れるのに、嫁である私は 2日のお昼過ぎても帰ることを許されません。

義兄は「もう、お暇しよう」と自分の判断で、義実家を辞する時間を決めます。そして義姉は「じゃ、明日また私だけで来るから」と言って帰っていきます。

あんなふうにスマート?にしたかったのですが、夫は私がもうすでに実家に帰りたくて泣きそうになっている顔をジロジロ見て(私が死ぬほど嫌いなのはこの、人の顔をジロジロ見る癖!!!!) それでいてすぐに私が帰りたがっていると気が付かないのか言い出すまでに時間がかかります。

私は子供の手前、夫に文句を言うことができませんでした。

子どもにとってはどちらも血のつながった祖父母なのだから、私が夫の母親の悪口を言うことはひたすら我慢していました。

子どもたちにとっても年の近い子がいない夫の家より、いとこ達がたくさんいる私の実家のほうが楽しかったとは思うのですが、子どもたちも本当にできの良い子達でわがままを言ったりDQNな発言をすることは一切ありませんでした。

私が「○○してほしい」と言ったのはこのお正月やそれ以外でも夫の家から帰る時に夫の口から「そろそろ失礼する」という言葉を告げることくらいでした。

私からすればお願いごとのできない私が心底心からお願いする数少ないことだったのです。

それすら言っても無駄なのですから、言えなくて不満が溜まりに溜まって行きました

 

その挙句の果ての娘の病気、そしてそれを起点とする私の体調不良・・・

 

正直、私が娘にとって「毒母」だったとしても、父親が支えてくれていたら摂食障害にまではならなかったのでは、と。

実際、カウンセリングを受けていて思ったのは、最終的に父親のフォローがいかに大切だったか、ということです。

沢山の方が入れ代わり立ち代わり親の会の参加していましたが、驚くほど似ていました。

自分を正当化するつもりはありませんが、娘が訴える、私の母としての未熟さ横暴さは私の母親の比ではないと思います。

でも、私は摂食障害にはならなかったし、グレたりもしなかった

その一つの要因は父親や周りの環境もあるのだと思います。

正直、私は娘がおかしくなった時も 甘えていると思いました。それは単に気質の違いだったのでしょうが、「私はもっとひどい目にあっていたのに・・・」って思っていました。

でも、実際は「周りの環境がもっと違っていた」ということなんだと思います。

過去の私には逃げ場があったのに、娘にはそういう環境がなかった・・・

そういう存在に父親である夫がなってくれなかったのだ、と・・・

もちろんこれは私の八つ当たりです。

必死になって子供のために時間も労力もお金もかけてきた私が娘や息子から糾弾されて、何もしなかった夫が何の非難も浴びないなんて・・・

あれで許されるなら何を言われても「わからない」 「できない」で通せばよかった・・・

 

夫はおそらく、いろんなことに執着しないタイプなんだと思います。

だから私のような執着タイプのことは理解できません。

おそらく、この先もずっとそうなんでしょう・・・

 

40年・・・ 長いようで短く、そしてこの先も 20年、30年の付き合いが続くのでしょう。

「もういい加減、諦めなよ」

母や妹にそう言われ続けて20年が過ぎました・・・