伯母

私には同い年の従姉弟がいます。同い年と言っても私が12月生まれ、彼はその2ヶ月後の生まれで、誕生年は違います。

母の姉の子で、結婚後4年目に授かった彼と、ほぼハネムーンベビーだった私。

母の姉は母子家庭で育った無口な夫と鬼のような姑に仕えて、やっと子供が授かりました。

伯母が嫁に行った先は祖父宅からカブで15分くらいの所で、祖父の家は出前もする料理屋だったので、みんな原付きの免許を持っていました。

母が言うには結婚してからも、毎朝決まった時間になると玄関の扉が開く音がして伯母が泣きながら原チャリでやってきていたそうです。

私も従姉弟のおばあさんとは何度もあっていますが、子供心にめちゃくちゃ怖い人だと思っていました。その怖いおばあさんと子供ができるまで毎日向かい合って内職の和服の仕立てをしていたのだそうです。私の母はとても器用な人でしたが、伯母はその上を行く完璧主義な人でしたので、子供ができなかった4年間、姑にミッチリお針を教わって、和服の仕立てで生計を立てることができるようになったことを最終的には感謝していました。

とは言え、たぶん22歳ころに結婚した伯母にとって子供が生まれるまでの4年間はかなりしんどかったと思います。

伯母はとても頭のいい人で(勉強好きであだ名が『蒲鉾』=毎日板(机)に張り付いているから)高校に行きたかったのですが、祖父が「女に学問はいらない」という人でしたし、駆け落ち夫婦だった祖父母にはとりあえず、二人の間の子供がその段階では5人いて、伯母の下に母と叔母、叔父がいて高校に行かせてやる余裕はなかったそうです。

しかしながら、祖母は田舎のお嬢様だったせいで、なぜか伯母も母も私立の女子中学校に通っていました。なので、高校へ行けなかったクラスメートはかなり少なかったそうです。

私の母も頭が良くて運動神経がよくて(運動に関しては圧倒的にきょうだいの中で一番だったらしく母の一番の自慢) 伯母が泣く泣く高校進学を諦めたあと、祖母は実家に頼って、母の学費を工面し、高校への進学が叶いそうになりました。しかし、母以上に頭が良く、高校に行きたくて行きたくてたまらなくて諦めた伯母が「妹を高校に行かせるなら私は死んでやる」と脅して阻止したそうです。なので母は母で、伯母のせいで高校へ行けなかったことをずっと恨んでいました。伯母の上にもうひとり少し年の離れたお姉さんがいたのですが、この人はメチャクチャ気の強い母の姉妹の中では異質的におとなしい人だったらしく、嫁ぎ先で姑にいびられた挙げ句、一人息子を残して首をつって亡くなってしまったそうです。なので、伯母が毎朝、泣きながら帰ってくると鬼のように怖かった祖父も「いつでも帰ってこい」と言っていたそうです。それでも基本的に負けず嫌いで気の強い伯母は4年間の子無しを責められながらも無事、第一子の出産にこぎつけることができました。

母やおばたちの話を聞いていると、4年間も子供ができなかったくせに私の母の妊娠を知った途端に子供ができた、という事で「へんねし子」(へんねしい=妬ましい)と言っていました。

伯母にとって母は本当に妬ましい存在だったようです。何しろ母たちのきょうだいの中では母がスタイルも顔も別格でしたし(笑) 父は若い頃からハンサムと言われていたし、結婚してすぐに子供ができたし、という事で、妬ましくて妬ましくてたまらなかったのですが

ここでやっと大逆転がおきました。そう、私は女の子、そして伯母は跡取り息子を生んだこと。

私のあと母は二人子供を生みますがふたりとも女の子でした。伯母はその後、私の下の妹と同い年の女の子を産んでいます。

しかし、伯母の息子に対する溺愛ぶりは、それはもう、私たちから見ても異常なくらいでした。本当に息子至上主義、と言う感じでした。

本人はそのつもりはないと言っていましたが、お兄ちゃんと妹の待遇の差は私たちの目からは明らかでした。ある時、妹が「お兄ちゃんと私とどちらが好き?」と聞いたのだそうですが、その時に伯母はきっぱりと「それはお兄ちゃんに決まっているでしょ」と妹本人に言ったそうです。

伯母にとっては当たり前過ぎて記憶にもなかったこのエピソードは、伯母が娘の日記を盗む読みしている時に発見したそうで、涙の跡でボタボタになった日記に

「今日、学校で先生が『親に他の兄弟と自分とどっちが好きかと聞いたら、親は目の前にいる子供に「それはあなたよ」と答える』と言ったので、お母さんに聞いたら『お兄ちゃんに決まってるでしょ!』と言われた」と書いてあった、というのです。その話を聞いたとき、私は確か中学生くらいで、友達と交換日記をしてたりしたのもあって、伯母の言った内容もさることながら「日記を盗む読みしたら」と悪びれることもなく言った伯母がメチャクチャ怖かったです。(それまで私は親が自分の机を漁っているかもしれないことなど考えたこともなかったのですが、それからは「鍵付き日記」を買うことにしました)

さらに伯母は「そんなこと言った覚えはないんだけど、とっさに息子には将来、面倒を見てもらわなくちゃいけないから思ったことが出ちゃったんだろうね」と・・・

私も三姉妹の長女として育てられていたので、なんとなく自分が跡取りで将来的には親の面倒を見なくちゃいけないんだろうな、と言う認識はありました。でも、うちの場合、まわりは私を跡取り認識する割には優遇されたという意識より、むしろ妹たちのお手本だけさせられて、いつも叱られ、けなされていたイメージです。

とにかく息子至上主義の伯母にとって、今から思えば私はなんとなく目の上のタンコブと言うのも変ですが、あからさまに攻撃の対象だったように思います。

伯母は内職はしていましたが、基本的にはサラリーマンの妻で家にいるので夏休み、冬休みなどに泊まりに行くとプールやスケートなどに連れて行ってくれていました。実家が自営だったためにほとんど家族と出かけたことのない私にとっては家族団らん(と言っても無口な伯父は本当に空気)がとても羨ましかったし、ちょっと伯母に理想の「お母さん」を夢見ていました。

伯母も多少は自分は男の子を生んでいる、と言う優越感があったのだとは思いますが、それでも高校受験で街に住む私の方がレベルの高い高校へ行ったり、推薦で苦労することなくお嬢様大学へ行ったり、高学歴の夫を捕まえたことがやはり許せなかったみたいです。特に学歴に関しては自分の高校進学以来の恨みつらみを引きずっている感じでした。私の父も私に「嫁に出す娘を大学に行かせるのはもったいない」と言うタイプでしたが、母が体を張って行かせてくれました(こう言うところから私は絶対的に母に頭が上がらない)

とにかく、私は伯母にとっては本当に癇に障る存在だったのだ、と後々思い知らされるばかりでした。大事な大事なお兄ちゃんと同じ年、と言うだけで・・・

私が還暦になるので従姉弟も来年の2月には還暦を迎えます。独身です。

姑が亡くなってからの伯母は本当に自由に好き勝手なことをしていて口癖の一つは友人知人に対して「私には金も暇もいくらでもあるからいつでも誘って」でした。

もう一つが「お兄ちゃんが嫁をもらわないことだけが唯一の不幸だ」でした。

伯父は地元では一流企業にただひたすら真面目に勤めていたし、伯母は内職の腕を買われて高額な仕立て代をもらっていたし、息子も当時、コンピューター関係では誰もが知っているトップの会社に勤めていました。そのご自慢の会社を「歯車になるのが嫌」と言って先輩が立ち上げた会社に転職してしまった時の伯母の嘆きは計り知れませんでしたが、結局、従姉弟はその後は独立して40半ばくらいまでは割とバリバリ働いていました。でもここ10年は「好きな時に好きな仕事だけするスタイル」で実家にいます。おかげで伯父亡きあと、ほとんど要介護状態の母親の面倒をまめまめしく見ていられます。ある意味、マザコンだった従姉弟は、それを全うしてるのだから偉いものです。

伯母は息子に何度もお見合いをさせましたが、彼は「頭のいい女は嫌い」と伯母がもってくる相手は全部断っていました(伯母は学校の先生とかいい大学を出ているお嬢さんばかり選んでいた) 彼の妹は伯母に言わせるとあまり頭の出来はよくないのですが、伯母譲りの器用さで料理も裁縫も得意だったし、ずっとバレーボール部のマネージャーをやっていて、とても気配りもできるし、気が効くし愛想が良くて人に好かれる子でした。山岳部で知り合ったお調子者のひとりっ子の旦那と結婚して二人の子供がいます。マザコンでシスコンの彼はそんな天真爛漫な妹レベルの相手が良かったようです。

しかし!!! 伯母は彼が結婚しないのは私のせいだとずっと文句を言っていました。

私が結婚してダンナをこき使っている姿を見て結婚したくなくなったせいだ、と・・・

私の夫は優しいけれど気が利かない人で、たしかに私は文句や愚痴を言っていましたが、そもそも従姉弟との接点なんて大学生の時に、教員採用試験のために和服の仕立てを叔母の家に泊りがけで習いに行ったのが最後です。結婚してからは彼に直接、夫の愚痴を言ったこともないので、もしも彼が知っているとしたら伯母が話したくらいでしょう。

私が結婚して何年かして、彼の友人たちが結婚するようになった頃、伯母が息子が「結婚したら自分が一生懸命働いたお金を全部嫁に取られてお小遣いをもらって暮らすなんて馬鹿らしい」と言っていた、と。確かに我が家もそのパターンではあったけれど、めったに会わないイトコの話より、自分の友人からの愚痴のほうが彼に影響を与えているのではないでしょうか?

それなのに、伯母は「姉ちゃん(私のことを伯母はそう呼ぶ)のやってることを見たら結婚したくなくなった」って・・・ 私のせいかよ!!!

言っちゃなんだけど、まだその当時は結婚したら専業主婦になる女性は多かったし、そうなれば家計を管理するのが妻、と言う家庭は多かったです。

私は社会に出ないまま結婚したけど、おりしもバブルの時代で、国内でもトップの会社にいた彼は当時のバブリーなOLたちに幻滅したほうが大きいんじゃないかと思うんだけど・・・

私の事は伯母は娘と共々、「ケチ姉」と呼んでいたらしいです。後々、結婚した後に従姉妹が「姉ちゃんのことケチだと思っていたけど、結婚したら節約したくなる気持ちがよくわかった」って言われて、そんなふうに思っていたんだ、と・・・

とにかく、伯母は私を貶めたいばかりだったんだな、と

伯母は本当にわかりやすく人を差別する人で、うちの下の妹が自分の娘と同い年のせいもあって妹を可愛がっていました。たとえば自分の娘にコートを買う時に色違いのおそろいのコートを買ってやったりしました。その妹にだけ、です。

私たち三姉妹が結婚した後も、差別は続きました。

と言うか、私だけが差別されていたのかな? 伯母を誘って京都の「なかひがし」に行ったことがあるのですが、ここは上の妹が予約をしたり、京都での予定も立てたりしていました。

なので、その妹に御礼としてお土産を持っていくのは良いのですが、それを皆の見ている前で、その妹にだけ渡したりするのです。まあ、それはある意味、正当な報酬だと思うので、それに関してはなんとも思ったことはないのですが、ある時、やはり私たち三姉妹と母と伯母でお食事に行った時に、上の妹にお礼を渡し、ついでに「妹ちゃんがこれ好きだったよね」と下の妹にもおみやげを渡しました。そして「姉ちゃんは何が好きだかわからんからナシね」と。

さすがの母も、後で「私だったら姪が三人いたら全員にお土産を渡すか、一人にだけ渡すらなら人が見ていないところで渡す」と 

「見ているこっちも嫌~な気分になった」と怒っていました。そう、私もその時は笑って過ごしましたが、さすがに、ちょっとモヤッとしました。そう言うことが一度や二度ではなかったので

上の妹は遠くにお嫁に行き、下の妹が母と同居していることもあり、今も一緒に伯母の見舞いに行ったりする下の妹は、やはり今も伯母に可愛がられているようで、行くと必ず「タチ」のお寿司屋さんに連れて行ってもらっているそうです(お金を出すのは従姉弟・笑)

私はこの10年くらいは伯父の葬式の時と、伯母が入院して手術をしたときくらいしか会っていません。その手術が元で今では要介護状態で、従姉弟がまめまめしく面倒を見ているそうで、今になって「嫁がいなくてよかった」と言っているそうです。

還暦を迎える息子が食事も洗濯も全部やってくれているのですから、幸せですよね・・・

姉弟は結婚しなくて妻と子供にお金を吸い取られることがなかったので50代ではもう、悠々自適に好きな仕事だけを選んでしている状態だそうです。

お金を使うところもないので、妹の息子と娘の学資や留学費用も出してやっていたとのこと。

それでも、自分の老後は老人ホームでゆっくりするから大丈夫と。

人様の懐事情を探るなんてさもしいけど、PC関連だったので、伯母が「今やっているのは5000万くらいの案件だ」とか言っているのを聞いたことがあります。しょっちゅう、ハワイにゴルフに行っていたことも知っています。羨ましい生活ですね。

それが可能だったのは「結婚しなかったから」だったとしたら、

伯母が言う「私」のせいで結婚しなかったのなら私に感謝してほしいくらいです(爆)

30年前、「お金も暇もあるからいつでも誘って」と言って周りの羨望を集めていた伯母はこの7~8年は家から全く出られない状態です。でも若い頃に行き倒したからいいのかもしれません。

 

幸せって なんだろうな・・・ 

 

それぞれにそれぞれのドラマが有って、それぞれの価値観があるのに、

図らずしも振り回されている自分がバカバカしく思えてきました。

 

父が亡くなった時、初七日まではご近所の人が毎晩 集まってお経を上げに来てくれる風習があります。その時に下の妹が赤っぽいオーバーオールを来ていたので「いくらなんでも非常識だ」と怒ったことがあります。それを伯母に話した時、たまたま掃除機をかけ終わってコンセントを抜きコードリールのボタンを押したのを見て「コンセントの先を持たずにコードを巻いたら床にあたって傷がつくでしょ。あんただって随分非常識じゃない」と言われました。

確かにコードリールをそのまま押したのはガサツだったかもしれません。

でも父が亡くなって1週間も経っていないのに赤い服を着ることのできる妹の神経と同じ「非常識」なのでしょうか?

私は子供の頃から母に「常識知らず」と罵倒されてきたので、今更伯母に「非常識」と言われても驚きはしませんでしたが、それでも私の非常識と妹の非常識が同列、と言うのは納得がいきませんでした。(本当のことを言うとそれまでコードリールの先を持って巻き取る、と言う事を考えたこともなかった)

 

私の母は私にとって毒でしたが、伯母も毒だったように思います。でも、それは私が自ら飲んだ毒でした。

関わらないでいたほうが良いかも、と思いながら、もう随分、会っていない伯母の見舞いにも行かなくちゃ、と思ったりもしています。