新しい年

いつもだったら、年が明けたら一番に新年の抱負をあげるのですが

なんだか最近少し気持ちが落ちているようです。

 

年末年始はやはりバタバタしていました。

今年は例年以上にお掃除を頑張った気がします。

誕生日に娘が私が「イヤシロチ」を作りたいと言っていたのでお清めの砂と太陽のタペストリーをくれました。なので、ある意味、私の思うイヤシロチは完成しました。

そのために寝室や納戸、夫の部屋も片付けが進みました。

年末に息子が東北からお隣の県に戻って、我が家で預かっていた荷物も引き取っていったので和室も少しスッキリしました。

コロナのせいで実家には元旦に顔を出しただけで夫の実家も夫が年末に息子のお土産を持っていって終わりです。

正月には来ないと言っていた息子が2日にチラッと顔を出しましたが、いらない荷物をおいていっただけですぐに帰りました。元旦はお嫁さんの家族と近くの島へ行くと行っていて3日はやはりお嫁さんのご両親と今住んでいる近くのゴルフ場へ行くと言っていました。なんだかんだで我が家にいたのは2日間合わせても1時間もありませんでした。しかも、あれだけお嫁さんのお世話をしたのに、お嫁さんは顔すら出さず・・・

正直、なんだかなーって思いました。

確かに送り迎えすれば毎回お礼を言われてたし、元旦にラインを送ったら「大好きー!」って『スタンプ』が返ってきてましたけど・・・

正月くらい顔を出してもいいんじゃない?って思った私は意地の悪い姑でしょうか?

2日に息子が顔を出した時、たかが10分足らずの用事のためにわざわざ2時間もかけて隣の県から来るとは思えず、つまりはお嫁さんを連れてお嫁さんの実家にいる、もしくはずっとお嫁さんの実家にお泊りしているんだろうな、と思っています。

たしかに今までも似たようなものでしたが、いつもは私の実家に元旦に行くこともあって大晦日~元旦くらいは我が家に息子だけですが泊まっていました。

なので、そのための準備に今は夫が使っている息子の部屋を大掃除したりお布団を干したり大わらわでした。

今回も泊まらないだろうな、とは思いつつ頑張って準備だけはしたのに・・・

息子からは半年近くのお嫁さんの病院への送り迎えに関して特に礼を言われることもありませんでした。

私がそれを担当するようになってから息子と顔を合わせる機会は初めてです。私は一度も面と向かって礼を言われてません・・・

もしもこれが夫がやることに対して息子が何も言わなかったとしたら私は息子に一言注意くらいします。でも、自分のことなので言いませんでした。そしてそういうことに全く気づかない夫は当然、息子に言うこともなく・・・ 正直、もやもやしています。

実は今年 はじめて娘からお年玉をもらいました。何ていうか、本当に驚いて涙が出ました。うれしかったです。

考えてみれば娘がこの時期、仕事をしているのは珍しいのかもしれません。コロナのせいで逆に今の仕事を3月までは続ける気にはなっているようです。本来は去年の2月で期限が切れるのでその段階で辞めているつもりでした。でも、多くの派遣の中で延長を要請されたごく少ない人員なので派遣会社が、なんとか続けるように説得し(?)2月から3ヶ月毎に更新続けてきました。娘は更新ごとに続ける気がないというようなことを言っていたのですが、やりたいことがコロナの影響でできなくなって、歯科タンク更新し続けているような状況です。でも、おかげで収入が安定しているのは確かで、娘が「今年はお金があるから」と夫と私に2万円ずつくれました。毎年、おばあちゃんにだけはお年玉をあげるように言ってあるので渡してはいましたが、私達にまでくれるとは思ってもいませんでした。

本当にうれしかったです。

 

でも、おかげで息子の薄情さと言うか非常識さに余計、虚しさが募りました。

お嫁さんの次の病院は3月まではないようですし、今までのように毎週ではありません。なので、次回は私に頼むことはないのかもしれません。

でも、意地悪く、今度頼まれても都合が悪かったら断ろう、とか思ってしまいました。

(今までは都合が悪くても無理して融通を利かせていた)

確かにお嫁さんからのラインでは「都合が悪かったら断っていただいても全然構わないのですが・・・」と前置きしてからの『お願い』なんですが

いい顔シイの私は「全然大丈夫」と引き受けてしまいます。その内容に娘はいつも呆れています。

私はいつも、誰かに頼まれたことをすることで自分の承認要求を満たしているので、ある意味、平気で物事を頼んでくるお嫁さんのほうが、私が提案しても必要ないという娘の態度よりも、何かを成し遂げた達成感はありました。だからお嫁さんのために頑張っていたことは楽しかったのは間違いありません。

でも、もう一段上の「感謝を態度にする」と言うご褒美が欲しくなってしまっているのは私のエゴですね。

それはお嫁さんからではなく息子から欲しかったのです。

この一連の私の行動は正直言って、お嫁さんのためにお手伝いをしているのではなく、単純に息子のためだったのだから・・・

ぶっちゃけて言えば私にとって大切なのは自分の子供だけです。

だからお嫁さんが正月に顔を出さなくても、結局は「いつものこと」なのでそれほど失望はありません。でも、息子が私達家族と一緒にいる時間をとってもくれないこと、私に対してねぎらいの言葉をくれないことが残念でたまらないのです。

このブログを解説した当初から息子とは決別、と その意志の表れとして書き始めたはずだったのに、今も私は執着しています。

それはおそらく息子にだけではなく、私の思う「家族」への執着として・・・

 

息子のお嫁さんの治療が終わったら、もう今の家にいる必要がなくなるから、私はしばらく実家に戻りたいと思っていました。

それは正直言えば夫や娘に対する報復です。どんなに私が「自分を犠牲にして」(そう感じている)家族のために家事を頑張っていても、私は彼らから手抜き主婦にしか見えていないように感じていました。だから・・・ もう私から家族を切り離して私を自由にして!って

でも娘から誕生日プレゼントをもらい、ましてやお年玉までもらってしまったら、うしろめたくてこの家から逃げ出すことはできなくなりました。

結局、私は無収入のただの主婦なので、家事くらいやるのが当然だ、と・・・

 

去年、実家で1ヶ月ほど暮らしていた時、正直PCもなかったので、やることもなく暇で仕方なかったのですが、あのときは一応、お仕事があったので時間が潰せました。今回は仕事もない状態で実家に戻るのもな・・・とは思っていたけれど

妹の旦那さんが定年退職して、もしかしたら実家に来るかもしれない4月までの2~3ヶ月を実家にいたかったな、とも思います。

でも、このコロナの状況ではたとえ同じ県内とは言え、市は違うし23キロぐらいはあるので、誰かの説の「17Km 以上は県内でも移動しない」と言うコロナ対策に反することになります。

結局、なし崩し的に現状維持になるのでしょう・・・

 

新しい年は正直言って 諦めの幕開けです

母のこと

父が亡くなった時、母は50そこそこでした。お見合い結婚でしたが、子供心に母は父にぞっこんだったように思います。

でも、私達三姉妹の男嫌いは圧倒的に母の影響だと感じます。

と言うか、人間不信、人間嫌いだったのでしょうか?

とにかく働き者で器用で頭がいい、というのが母の印象です。

もうじき84歳になりますが、今でも漢字アプリなどで漢字テストなどをすると県庁に勤める孫のお嫁さんが舌を巻くほどよくできます。(私達はそれくらい当たり前、と思って育ってきました)

アイディアマンでもあり、もし時間が許して環境が許せば、実用新案なんていくらでも生み出せるんじゃないか、と思うくらいです。

ただ、頭がいいと言われるよりも運動神経が良いのが自慢で、これを娘たちが誰も引き継いでいないのが許せなかったみたいです。

私も下の妹もドンちゃんなのですが上の妹だけは少し運動神経が良かったので待遇が良かった気がします。

自営の仕事で忙しかったのに私達三姉妹の服はいつも手作りでした。洋裁よりも編み物が得意で、特に機械編みは習いに行って結構立派な編み機を何度か買い替えていた気がします。ただ、最新鋭の編み機は教室に預けて放置していたところそこの教室がなくなって戻ってきませんでした。あれがもしあったら、私もやってみたかったので残念です。まあ、でも最近自分の冬物衣料の整理をしましたが、ニット製品は重いし、思ったより暖かくないのでかなり処分をしてしまいました。なので手編みのセーターの出番はもうないかもしれません。

着付けを習っていて私達や孫のお正月や成人式、卒業式の着付けにはかなり役に立ちました。この教室は全国展開する大掛かりなものでしたが、母が卒業する年に全国で3人しかもらえなかった「優秀賞」をもらったりもしています。

桐塑人形というのも習っていて区の展示会で優秀賞をもらったりもしていました。革工芸もやっていて、私の若い頃のバッグは全て母が作ったものでした。

その他にも袋物やら畳の縁バッグ、紙バンド工作など流行りものもすぐ取り入れています。

今は根気がなくなったとか目が見えにくいとか言いながらも今年はマスクは100枚以上作ったと言っていました。

とにかく、何かを作ることが大好きで、この性質は上の妹がよく引き継いでいるようです。妹も洋裁教室に通ってけっこう自分の服などは作っているようです。

下の妹は草木染めを習っていて京都まで出かける、と言っていましたが、この妹は何をしてもすぐに飽きるタイプなので今どうしているか、とは聞いていません(笑)

私は母から言わせると手につけられない不器用女ですが、それでも子どもが小さい頃は子供服を手作りしていましたし、今も天然石のアクセサリーとかレジンとか興味があって材料だけは山ほど揃っています(笑)

時間もできたし部屋もきれいになったのでそろそろ再開しようとは思っていますが

デモデモダッテちゃんなので、いつできるようになるかわかりません・・・

さて、母は正義の人でもあります。

昔はとても強くてさっぱりしている、と思っていましたが、実は小さなことにグジグジ悩むタイプだと知ったのはかなり最近です。

それでも、昔から母は義侠心が強く、自分のためには嫌なことを全て飲み込みますが、弱い人が困っていることは見捨てることができないらしく、「あの人には怖くて言えない」とみんなが敬遠する人にはズバッと注意したりしていました。

そういう時の母はとてもイキイキしていて「あの人にこう言ってやった!」と自慢します。

そういうのが長く続いたせいで年を取って、自分の困りごとには「言えない」とグジグジする姿が意外でした。でも、よ~く考えてみれば母は自分の困りごとは人を頼らず、自分で全部対処してきたんだな、と。

この人を頼るより自分でなんとかしようとする性質は私と上の妹がしっかり受け継いでいます。一方、下の妹は「いろいろ学んで、自分でやれば早いことでも極力 手を出さない」主義になったそうです。で、実際に何もしない、何もできない、何もやりたくないって言っても「いつも誰かが助けてくれる」という状況になっているのだそうです。

「そりゃ、そうでしょ!! どれだけあんたの尻拭いしてやったと思ってるんだ!!」

とこの前の法事の時に文句を言いましたが、「そうそう、そうやって皆がやってくれるから」とケロリ。

まあ、これで「しょーがねーな」と思ってしまうのですから、妹の言うとおりかもしれません。まあ、私も長女気質ですし・・・

今はこの妹と母が二人で実家に暮らしています。子どもたちは独立し、下の男の子二人は結婚して孫は1歳、下の息子のところにも来年子どもが生まれるようです。

旦那さんは自分の実家のある地域に単身赴任中。でも今年度で定年になり、もしかしたら私達の実家の方に戻ってくるかもしれません。

私はお嫁さんのお医者通いの送り迎えが済んだので、実家でしばらくのんびりしたいと思っていましたが、妹の旦那さんがいるとなるとちょっと無理かも・・・(かつての私の部屋が妹の旦那さんの部屋になっているし) 実家は部屋だけはたくさんあるのですが、我が家同様に、出ていった子どもたちの部屋もそのままになっています。今は私の実家というより妹の子供達の実家のようなものです。

母は遠くにお嫁に行った見た目も自分によく似ている上の妹を気に入っていると思います。それは子どもの頃から感じていました。

私と下の妹は父そっくりの見た目です。体型まで同じなのは私だけですが(笑)

周りは母が父にぞっこんだったと言う認識ですが、私からすれば見た目も容姿もけなされる私と、性格が父そっくりだとケチを付けられる下の妹からすれば、本当は母は父のことを恨んでいるんじゃないか、と思うくらいです。

父はとにかく外面が良くて、誰もが「いい人」って言います。特に昔から人たらしというか年配の人には人気で父の葬儀の時に、ご近所のおばあさん連中からどれだけ父に助けてもらった親切にしてもらったかというエピソードを山程聞かされました。

特に気難しいので有名で、ご近所の人も殆ど話したことがないというオジサンが父の棺にすがって「○ちゃん」と泣いていたのは衝撃でした。父の同級生のオジサンも自分が亡くなるまで必ず 盆正月にお参りに来ていて、実の弟である叔父よりも律儀だと思っていました。ただ、その頃の私は腐女子だったので、その同級生のオジサンが生涯独身だったこともあり、実は父に道ならぬ思いを抱いていたのでは?などと思ってしまってましたが・・・

いずれにしても、私の父への思いは父の早死によって美化されているのは間違いありません。

その父を誰よりも愛し、そして誰よりも恨んでいたのが母なのかな?と思います。

父が今も生きていたら、せめてあと10年長生きしていたらまた違っていたのかもしれませんが

なんとなく、私は「瓜二つ」と言われた自分が母に対して負い目を感じている気がします。

 

多分私は母とは致命的に相性が悪いのだと思います。

考え方が全然合いません。

だから妹と一緒にいるのが母にとっては一番良いのかもしれません。

でも、やっぱり実家に執着のある私にとってなにか割り切れない思いがあります。

 

残された母の時間の間に私自身もいろいろ思いを整理しなくては、と思います。

 

父の33回忌

父が亡くなって32年が過ぎました。

実家は本家なので、ご先祖様の法事はキッチリ行ってきました。

でも、ここ10年ほど前から大掛かりな親戚を呼ぶスタイルはやめて母と私達三姉妹のみで行うようになりました。

それまではキッチリ3と7で行い、47回忌の後に50回忌、そしてとんで100回忌でとい上げとなります。私が子どもの頃には本当に毎年のように誰かしらの法事があって、100回忌も数回あったように思います。

もちろん、同じ年に重なる人はまとめて、なので年に1回以上にはなりませんが・・・

母が律儀に関係者が生きているうちは、と行ってきましたが、その関係者も年を取り、息子さんたちが来てくれるようになり、これはかえって迷惑だろう、と父の法事でも父の兄弟(姉二人、妹弟一人ずつ)も呼ばなくなりました。その後、伯母二人も数年前に亡くなりましたが、母も3回忌以降は呼ばれていない、とのことです。

夫の実家も義父が「俺は13代目」と自慢にする?本家でしたが、義母が20年ほど前に亡くなってからは、もうご近所を合わせて20名以上が集まる法事はなくなり、義父が亡くなった今では義兄嫁さんに夫が「お父ちゃんの法事も3回忌まででいいから」と言って終わりになりました。

それに比べるとうちの母はまだ本家の嫁の役割にこだわっています。

ただ、昔のように家で食事をしたり、引き出物を沢山用意したりをしなくなった分、簡素化はしているし、それこそ10年前など私は父の法事をすっかり忘れて「お経が始まるけど何やっているの」と携帯電話で呼び出されてあわくって駆けつけたらちょうど、お経が終わったところでした。それで許されたのが驚きでした(笑)

昔はお経だけでも2時間位はありました。(中休みがあり、終わった後のごえん様のお説教がある) でも、そのお経もすんごい簡略化で母はグチグチ文句を言っていましたが、子どもの頃から長過ぎる法事に辟易していた身としてはありがたいです(笑) その時から母が4人だけだから美味しいものを食べよう、なんていい出して、その時はフランス料理のコースでした。なので私はお料理だけ呼ばれた次第です・・・

でも、とりあえずお墓でのお参りとお寺での読経には間に合ったので良しかもしれません・・・

さて、今回も母と三姉妹のみの予定でしたが、唯一、他県に嫁いでいる妹が、このご時世なので当日キャンセルとなりました。私も前日、旦那さんが公務員なので大丈夫か?と聞いたのですが、多分大丈夫だろう、と。

でも、もうひとりの妹の旦那さんも公務員なのですが「不要不急で他県に出かけると結構、針のむしろだから嫁もあまり出かけられない」と

そこへ急激な寒波の襲来に、雪が多い高速を飛ばしてこなくちゃいけないので母がストップを掛けました。

結局、法事に参加したのは母と私と母と同居している妹の3人のみでした。ごえん様ががんの手術をしたあとで膝も悪くしていたせいか、お経は本当に超簡素化(笑)

まあ、ご時世だね・・・ こんな調子ならどんどん法事なんてものはなくなるかも

で、母にも「あんたの時には何回忌までやってほしい?」と訊くと「まあ7回忌まででいいかな」と。最近は3回忌で終わりのこところも多いらしいから、それでも十分かもしれません。とりあえず本人の意向を確かめて起きます。

母は誕生日が来ると84歳になります。母方の祖母が亡くなった年に追いつきます。先日医者で検査をしたら「まだ10年や15年は大丈夫」と言われたそうです(笑)

なんとかまだボケてはいないようなので笑い話で済んでいるうちに色々と意向は聞いておいたほうがいいかもしれません。

実家の仏壇とお墓は父の弟が譲り受けたいとは言っていましたが、この叔父は私の記憶にある限り盆正月にお参りに来たことなど一度もありません。

法事には仕方なく?顔を出すので、年に1回は仏様にお参りしていたのは間違いないのですが、お墓参りは見たことないです。

それでも実家の名前を引き継げるのは叔父しかいないのですが、叔父には息子と娘がいてどちらにも子どもがいません。

姉弟とは本当にきょうだいのように育ちましたが、私の父の葬儀の時以来会っていません。おそらくどこかですれ違っても気が付かないでしょう。

無理無理叔父がお墓とお仏壇を引き継いでもその後の従姉弟で終わりになります。その時にきちんと墓じまいをしてくれるかどうかも心配です。叔父はとんでもない困ったちゃんでしたが、息子も同じレベルだったので(笑)

父やご先祖様のお骨は全て本山に納骨されているそうで、実家のお墓には誰も入っていないんだそうです。母は自分は本山でなくていい、と言っていました。

それもどうしたものでしょう? 

夫の父が亡くなった時に夫の家族は本山には納骨しなくていい、と言っていました。でも、私が関わっているのは義父の母親と義母のときですが、そのどちらも京都の東本願寺まで納骨に行きました。それは義父の意思だったと思います。だったら、その当の本人も東本願寺に納骨してもらいたいのでは? そう言って納骨してもらいまいた。

考えてみれば夫や義兄嫁さん、そして夫のお姉さんもどちらかと言えば、家とか先祖とかあまりこだわらない人だったみたいです。

そこへ行くと私だけが意識として「本家の跡取り」感覚があったのかもしれません。

とは言っても結局は私は実家を出た身なので、もう実家のことに関わる筋合いもないのかもしれません。

母が私が自分の実家にこだわっているのとは逆で全然、執着がないことに気がついたのはまだ10年くらい前でした(笑)

この先、夫婦別姓制度が確立すると、以前の話ではこの法律が通った後、すでに結婚している夫婦でも施行後1年だったかは夫婦別姓を選べるようになるというような話を聞いたことがあります。私が民法改正の話題を授業で取り上げたのが、確か1996年頃だったので、あれから25年、全く前に進んでいないのでこの先どうなるかもしれませんが、私は今でも元の名字に戻りたいとは思っています。でも実際には今の姓の方が1.5倍長く使っています。そして私が実家の姓に戻ったところでやはりここで終わりです・・・

なんだかんだで私だけが実家にこだわっている気がします。

実を言うと夫の実家も義兄は30そこそこで亡くなっており跡取りである息子も障害があって独り身ですでに50歳を過ぎています。この家もやはりもう跡取りがいません。

どうしても家を継ぐ、ということになるとすれば我が家の息子になるのかもしれませんが、息子も子どもがいません。この先もおそらく子どもを持つことはないでしょう。

そう言えば夫と結婚した当初、ここの家は途絶える家なのかも、と感じたことがあります。夫の父は9人きょうだいの長子ですがそのお父さんは本来は次男でした。そして夫の兄は早死しており、そしてその子どもは・・・

夫は次男で、義兄が亡くなった時(大学1年)に自分があとを継がなくてはいけないのかと覚悟したそうですが、障害があっても甥っ子が跡取りだから、とアテにされなかったそうです。義母がとてもやり手だったので、障害がある孫息子にでも嫁を取らせる気概はあったようです。なので、自分はこの先も家のことに関わるつもりはないようです。義母は私のことも実はあまり気に入っていなかったと思います。でも、すんごい自意識過剰ですが、私が最初から跡取りの嫁であったなら夫の家も安泰だったと思います。私はキッチリと息子を跡取りに育て上げたと思います。

でも、そうでない今は夫の家のことも名字のこともなんのこだわりもありません。

ただ、私は自分の実家に帰りたい、自分の名字に戻りたいだけです。

でも、母は逆に私の実家には全く何の未練もありません。じゃ、自分の実家に対してはどうかと言えば、それもあまりないのかもしれません。母の実家は祖母の名字を名乗っていました。祖父母は共に再婚同士です。母には異母兄弟、異父兄弟がいました。異父兄弟とはほとんど交流がなかったそうで、10年ほど前にかれこれ40年ほど前に亡くなった祖父の土地の名義が変えてなかったために、異父兄弟(兄、と姉それぞれ独身)に連絡をとったところ、親が死んだときにも連絡をくれなかったことなどから揉めて、さらにその相続の話で裁判所まで出向くことになって大変な思いをしました。遺産と言っても住んでいた土地だけで母たちは相続放棄しているので実質的には末っ子であった弟が全て相続したのですがこの叔父もダメダメな人で、しっかり者の母に頼ったわけです。とは言え母も70を過ぎて裁判沙汰というのは大変だったようです。

でも、その異父兄弟が存命でしかもふたりとも結婚していなかったのでまだ良かったみたいです。もし二人が亡くなっていてその子どもたちが代襲相続人だったらもっと厄介だったかもしれません。いずれにしても、誰かが亡くなるといろいろな厄介事があるようです。

終活という言葉が流行りですが、なにもない、と思ってはいてもあれこれ決めておかなくてはいけないのかもしれません

怖い先生が優しい(笑)

先週、整体に行ったものの中々膝の痛みが取れません。

先生には「俺は人にまた来いとか通えとかはめったに言わないけど、あんたは少し通ったほうがいい」と言われてました。

ここのところ、毎回とても混んでいて、先週行った時は前のお客さん数人と軽い口喧嘩みたいな感じでした。一人は何年も通っている60代くらいのオバサン、もうひとりは初めてらしい団塊世代っぽいオジサン。初めての人はわかりませんが、オバサンはさんざ悪態をつき合いながら「また来るわ」と帰っていきました(笑)

先週施術をしてもらってかなり良かったはずなのに、今週またかなり痛くなってたのはなぜか・・・ 無理な運動した? 体を動かした? と聞かれても相変わらずのおこもり生活なので、思い当たるのは土曜にオンラインセミナーで朝の10時から夜6時半過ぎまで講義を受けていたことくらい

そしたら、あまりに動かさないのもよくない、と言われ、そんなに長い間、何をと言われたので心理学のセミナーを受けた、という話をしました。なぜ心理学を、というので娘がかつて摂食障害になったことがあって・・・という流れに

そしたら急に先生が優しくなりました。「俺たち男には全部はわからないけれど、母親のあんたはそれはそれは大変だっただろう」って

もう、泣きそうになりました。

いつも、生活を丁寧にしろ、とか生活環境、態度を変えろとか怒られてました。

いえ、話し方がキツイので怒られているようには感じますが、私は先生のおっしゃることは最もだと思っていたし、アドバイスだとちゃんと受け止めていました。だから怒られても通っていたわけです。

五十肩の時には半年も整形に通って駄目だった腕を本当に一発で直してもらって、その腕も確かだと思っています。

膝も先月までは本当にすっかり痛みを忘れるくらいだったのに、今月に入って特に身に覚えがないのに痛くなりだしてしかも、前のように一発では治らなくなりました。

でも、「膝は使うなと言っても使わなくてはいけない場所だから治りが悪くなる」と最初から言われていたのもあるし、他で結構高いお金を払っていることを思えば、この先生のもとに通ってもそれほど負担ではないかも、と思っていました。

そこへ来て今回、先生から思いもよらず優しい言葉を聞いて、「あ、私やっぱり誰かに言葉をかけてもらいたがっているんだ」と気づきました。

それが特に怖い先生だったからよけい沁みたのかもしれません

大掃除

この1週間ほど、大掃除の真っ最中です。

とは言っても、とにかく我が家は私の溜め込みグセのせいで物で溢れかえっています。

我が家は5LDK+納戸ですが、娘の部屋以外は全ての部屋に私の物が山積みになっています。

なんとかダイニングはテーブルでご飯が食べれる程度にはなっていますが、ストックぐせがあるので、食品を入れるための棚で圧迫されています。さらに漫画の詰まった本箱もあります。

リビングにはPCがあるので、この周りに私の仕事の資料がドチャッと。さらに本箱が2個あります。ピアノの上も物置になっており、その前にタワー型の小物入れが3つあるので基本、ピアノは弾けません・・・

1階には二間続きの和室があるのですが、北側は私のマッサージベッドが鎮座ましましています。カラーボックスが8個、BL系の漫画本が、おそらく5000冊くらいはあると思います、CDも1000枚はあるのかな?・・・更に、同人をしてた時の原稿用紙やらコピー本の表紙やら何やらかにやらで足の踏み場もありません。物を大量に積み上げているので実は扉を1個 塞いでしまっています。

ここに神棚があるので、お正月にはなんとか片付けたいと思っています。

南側の和室は、なんとか客間にしておこうと思っているのですが、座敷机に今は娘のリモートワーク用のPCがどど~んと2台。

床の間にはお人形ケースが並び、仏間はパンパンに物入れになっています。そして私の茶道具、ミシンなんかが置いてあります。

2階は息子と娘の部屋がそれぞれあり、寝室と続きになって納戸があります。今の時代だったらウォークインクロゼットにしたんだろうな、と思います。

息子が出ていってから残っていた机とベッドを私が使い、そこに天然石アクセサリーの材料が大量においてありました。

でも、息子が帰省すると、この部屋を使うので、そのたびに怒られていました。

そして寝室には私の嫁入り道具の洋服ダンス和ダンス、ドレッサー、前の社宅の窓高似合わせて作ってもらったチェストが2つとダブルベッドがあります。

これだけで結構狭くなっているのですが、ここにまたまた私の本や漫画を入れるためのチェストが大2個、小3個入っていて、扉がギリギリ開けられる程度です。

ベランダに洗濯物を干すので窓前を空けなくてはいけないのですが人一人がやっと通れるくらいのスペースしかありません・・・

納戸への入口もあるのでベッドを置く位置にいつも困っています。

納戸は3畳ほどでダンナさんの独身時代のおっきな机があります。パイプハンガーが特大1個、普通サイズ2個あります。本棚もあります。これでほとんど身動きが取れません・・・

あと庭に倉庫があるのですが、ここにはやはり漫画と石田彰様追っかけをしてた時のグッズが山ほど詰まっています。

まあ、よくもよくもこれだけ溜め込んだ、と言うほどに物で溢れかえっていて、とてもとても断捨離には到達できません。

それでも、少し反省して、片付けることにしました。

私の部屋として使っている寝室には一応 夫のものもあったのですが、これを全て息子の部屋に移動させ、逆に息子の部屋にある私のものを半分くらい(笑)は寝室に移動させることにしました。

これをするのに実に5日間もかかった次第です。

でも、部屋が片付いていくとやっぱり、ウキウキしてきました。

と言うか、私だけの部屋が完成するのです。

今まではどこの部屋も私のもので溢れかえってはいたけれど、でもどこかで自分の部屋ではない、と思っていました。でも、今回のお片付けで寝室と納戸が完全に私だけの空間になりました。

本当にワクワクしています。メッチャ嬉しいです。

考えてみれば、私の部屋って言えるのは結婚してから初めてなのかもしれません。

納戸には扇風機とかストーブとかスーツケースと言った私のものではないものもありますが、でも、机周りだけは片付けたので机を使って作業ができます。息子の部屋の机を使っていた時もありましたが、なんとなく借り物みたいだったので今のほうが嬉しいです。

夫は私以上に物を片付けない人で、今までは寝室においてある夫のものが汚くて腹が立っていましたが、それに苛立つこともなくなります。

メッチャ嬉しいです。

 

 

娘に

娘も将来のこと、仕事のことで色々悩んでいるようです。

1年間、農業学校に行って有機農業を学ぶとか、いっそいきなり就農するか、とか・・・

そして今日、「お母さんは私が何に向いていると思う?」と。

なので、私は「PC関係が強いからプログラミングとかの仕事が良いんじゃない?」と。

そしたら、確かにできないことはないけれど、でもやりたいことではない、と言うようなことを。

なので、私は「昔から おまえは白衣を着てなにかの研究をしているのが似合っていると思っていた」と言ったら

「医者とか薬剤師とか?」と言うので、「まあ、そういうのもあるかな」と

そしたら「医者には興味はなかったけど、薬剤師はいいかもと思っていた。でも、お母さんが医者や薬剤師はお金がかかるって言ってたから、何かというとお金を持ち出すお母さんの前で薬学部に行きたいとはいえなかった」と・・・

そっか、結局私のせいなんだ・・・

私は一言も「お金がかかるから辞めろ」とは言っていません。でも娘は私のその言葉のせいで断念したのだそうです。

娘からすれば「暗に匂わせた」ということでしょうが、私は単純に事実を述べただけです。でも、それも やっぱり私のせい・・・

娘が子供の頃「お花屋さんになりたい」と言ったのに、私が「生き物の世話は大変だよ」と やっと見つけた宝物を吹き飛ばした、と。

確かに、小さな子どもの夢に現実を押し付けた私が悪かったのかもしれませんが、私の実家は鰻の卸業をしていました。

台風の時、停電になって井戸の水を汲み上げることができずに 一晩で何十万と言う損害が出ました。当時は結構、停電が多くて、そういうことがしょっちゅうありました。

正直、親の深刻な顔を見て明日の生活もままならないのでは、と子供心につらい思いをしたことがありました。なので、つい、自分の子供にはそんな思いをさせたくない、と「生き物を・・・」と言う発言になってしまったのだと思います。

私は想像力というものがなく、何かをする時に常に自分の経験だけが頭に浮かび、そのつらい状況をあえてあげることで、そんな場面に直面してもパニックにならないように、いわゆる予備知識を与えておかなくちゃと思ったのだと思います。でも、それは子どもには単に夢を否定するだけの行為だったのでしょう。

薬学部がお金がかかる、というのも「だから辞めろ」ではなく、「だから、しっかり勉強する意識を持て」と言う意味合いだったと思います。

子どもが小さな頃にラボで英語を習っていて、1ヶ月間、アメリカにホームステイするはずでした。そのために10年かけて用意してきたのに、その段階で先生が辞めてしまって流れてしまいました。

あの時、娘にアメリカという国を体験させておけば違っていたのでしょうか?

ピアノもお習字も英語も10年以上習わせてきました。子どもの教育にお金を惜しんでいないと、なぜ気がついてくれなかったのでしょう?

 

子供のために家族のために私がやってきたことは全てただの空回りでしかなかったようです

 

冷血漢?

昨日、夫がいつもより1時間ほど早く帰宅しました。

ここのところラインの調子が悪く、連絡がいつもオンタイムでは届きません。

「早かったね」と言うと「体調が悪くて・・・」と

なんでも階段を登ったら動悸息切れが長く続いたそうで産業医に相談するとかかりつけで相談するように、と紹介状を出されたとのこと。

夫が言う「かかりつけ」は私が掛かっていた胃腸科メインの内科です。でも私はこの夏についにここから別のお医者さんに鞍替えしたところですが(笑)

私は前々からそのお医者さんを疑問視していましたが、去年の肺炎騒動、めまい騒動の時に夫がそのお医者さんについて行ってくれて、「それほど悪い先生ではない気がする」とは言っていました。普段、歯医者以外は殆ど医者にかからない夫は「かかりつけ」と言われてそのお医者さんしか思いつかなかったようです。

昨日はそこのお医者さんがお休みなので今日の朝、半日年休をとって行ってきたようです。

結果として「狭心症の疑い」と言われて 24時間ペースメーカー?のようなものをつけて検査することになりました。

私が去年、肺炎をやった時に「パルスオキシメーター」を買いました。その後、コロナの影響でこの酸素供給量の重要性が言われるようになり、我が家でもしょっちゅう、活用していました。その当時から夫の数が 96近辺で、私が肺炎だった時に94だったか92だったかで先生に大騒ぎされた覚えがあるので、かなり気にしていました。

「97以上が正常」で、マスクなどをすると96くらいになることはありますが、私の数値は大抵は98~99でした。なので、何もしない状態で96の夫はちょっとマズイのでは?と思っていました。

でも、特に何もなかったので放置していたのですが、昨日産業医の先生が測ってくれた時も「96」で、「あまり良くない」と言われたそうです。

朝8時半に出て11時過ぎまで帰ってこないので心配をしていたら「狭心症の可能性」と言われ、血液検査とそのペースメーカーみたいな機械の結果は明日だそうです。

しかし・・・明日はお嫁さんをがんセンターに送り迎えする最終日です。

いつもは抗がん剤の点滴をする時間が2時間なので、点滴を始める時に連絡をもらって終わる頃に迎えに行くのがだいたい12時~12時半頃でした。(家を出る時間)

しかし、明日は診察とお薬だそうで、正直、この「診察」が何時になるか読めません。

診察開始時間が9時なので、それ以前に行くのは間違いないのですが、下手すれば2時間、3時間待ちになるかも、と 逆に早めに終わるかもしれません。

なので、朝8時に我が家を出てお嫁さんを拾って、その後はがんセンターの駐車場で待機かな? とか思っていました。

でも夫は10時頃にその機械の回収に来てくれ、と言われた、と。

思わず「う~ん・・・」と唸ってしまいました。夫は「自転車で行くからいい」といいましたが自転車では20分くらいかかります・・・ 狭心症?の疑いが掛かっている人を20分自転車で行かせるのも・・・ だったらタクシーでも使ってくれれば、とも思うのですが

そもそもお嫁さんだってタクシーでもいけないことはない、と言うか 朝だけだったらお嫁さんのお母さんが送れないこともないです。(お嫁さんのお母さんはお店を経営しています。水~金 11時にそのお店に着けばOK がんセンターを経由しても10時半には着けるはず) 私が好意で「お仕事がある日に慌ただしいでしょうから」と「私はいつでも空いているので」という事で引き受けています。

普通だったら夫を優先するべきだろうな、と思う反面、でも先に頼まれている方が優先か? とか

 

私が夫やお嫁さんの病気をそれほど大きく捉えていないせいかもしれません。

というのも、前にも書きましたが霊能力のある先生に「家族を含めて私には命に関わるような大きな病気も怪我もない」と言われているせいです。

そう言われたのはもう随分前で、1月に肺炎の後にも同じことを言われて、そしてコロナの後にも言われました。それなのに、夏の間の体調不良の時にはもうこの世の終わり家のようにヒヨっていました。

すっかり元気になった今では、やはり先生のおっしゃることが正しかった、と思っています。

なので、それらを経て、踏まえた上での「軽視」なのですが「狭心症かも」と言われて不安になっているであろう夫に対して随分冷めた態度をとってしまったのでは? と思っています。

 

お嫁さんにも「霊能力のある先生に、ちゃんと治療をしていれば大丈夫と言われているから私はあまり心配していない」と励ますつもりで言ってしまいましたが、これもまずかったかな、と思ったりもします。娘の結婚も出産も「再来年以降のメがあるから大丈夫」と楽観視していますし、娘にも言ってあります。

あまり心配顔をしたり深刻にならないほうが相手も気楽なのでは、と思ってのことですが実際問題としてどうなのかな・・・

私が家族を含めて命に関わるような、人生が崩れてしまうような兆候はないと言われている、ということは夫には何度も言ってあるのですが、夫は「自分にとってどうでもいいことは忘れる」そうなので、記憶していないかもしれません。

そうすると、今日の私の態度はやっぱりただの冷血漢にしか思えないかもしれません。

私はこの先、夫との生活が30年以上続くものと思って日々暮らしています。