あけまして・・・

とんでもない幕開けの1年となってしまいました。

ずっとテレビを見続けて、東日本の時のようになりそうで気を付けています。

実家に帰省中、母のスマホの大音量の緊急避難速報に全員が固まりました。

そして、続く地震。大きさもさることながら、とにかく長く長く感じました。

阪神の時は下から突き上げるような感じで就寝中に飛び起きました。東日本の時は家族でテレビを見ていたらめまいがするような感じで周りがグルグル。どういう事?と言っているうちにテレビで割とすぐに大津波警報と言う表示が出ました。

今回は横揺れが長く長く続く感じて、家の外の電柱がぐらぐら揺れてるし、あまりに長いのでこのまま家に中にいていいものかとも思いました。

能登の人たちもどうしたものか、と思っているうちに家が押しつぶされたのでしょう。うちも、もし震度7であったら、誰一人逃げられなかったかも… 妹の旦那さんだけが二階にいたからよかったかもしれない。母はエビフライを揚げている最中でしたから、家事とか火傷の危険もあったと思います。

続く羽田の事故も衝撃的でした。

今年は一体、どういう年になってしまうのだろう、と。

 

こんな大惨事の最中に自分の事をかくのもおこがましいのですが

みそかの夜からとにかく体中が痛くて痛くて、特に方から背中、そしてお尻の両側・・・

おなかも痛くてトイレに駆け込むのですが、特にお尻の横の筋肉? 腹筋?が痛くてしぶるおなかに力が入らなくてしたいのにできない、と言う感じで油汗まみれになり痛みと戦う羽目になりました。

それでも朝になって何とか治まったので初詣に行き、その後、実家へ。

しかしまた夕方くらいから腰からお尻のあたりの筋肉?が果てしなく痛み始めました。

それが2日ほど繰り返し、やっと痛まずにトイレに行けると思ったら今度はほとんどお水のような下痢・・・

さらに、インフルの後、妙に体がピリピリすると思っていたのですが、昨夜は体中がかゆくて・・・

ちょっと前に汗をかくと背中の毛穴の一つ一つをつまようじの先でつつくような痛みを感じていました。母がアレルギー持ちで汗をかくと繊維と擦れて痛い、と言っていたことがあるのでそう言うものなのかなと思っていたのですが、汗とは関係なくお風呂に入っても毛穴がチクチク痛むようになりました。温まるといけないようです。

そして、インフルの後から食べ物があまりおいしくないと感じていたのですが、胃は痛むし、食欲もなくなるし(とは言え元旦の実家ではしっかりお酒も飲んだしお節もしっかり食べました。ただ、いつもより味が悪いな、と思ってはいましたが)

挙句の胃痛に下痢。なのにしっかり体重だけは増えている・・・ どういう事?

 

調理実習が続いた時に、体中が痛くて動かないと言う状況はもうここ何年もあったので、今回もそうだと思っていました。そこへインフルのパンチを受けて、もしかしたらインフルの後遺症?とも思っていたのですが、インフルの後遺症ぽくはありませんでした。

そこで体中が痛む、と言うので調べたら線維筋痛症と言うのが出てきました。更年期障害とも関係あるようですが、とにかく原因も治療法もはっきりしていないようです。検査をしても悪い所が出て来ないので、周りにも理解されがたいようです。

私は元々我慢強い方なので、少しくらいの痛みなら家事をします。実際、コロナワクチンの後遺症と言い張っている手足の痺れは今も続いていますが、よほどひどく無ければ口にしないので、家族はその痺れの不快さをわかっていないと思います。

線維筋痛症はどこの医者に掛かればいいのでしょうか? とりあえず、いつもかかっている漢方の先生の次の予約は1月末です。その時に「長く漢方を飲んでいるので一度血液検査をしましょう」と言われています。と言う事を思い出して、そう言えばここ1ヶ月半ほど、新しい漢方を追加されたのですが、もしかして、それを飲むようになってから毛穴の痛みが始まったのでは? と。実はその薬をもらう直前までは小まめに健康日記を書いていたのですが、仕事が忙しくなった時にサボってそれきりになっていました。

11月末に調理実習をして、その時も体中が痛い、と書いていて、その後で妹の所へ電車で行ってお泊りして、そしてテスト作成、採点、そしてまた調理実習、インフルエンザ、と言う感じでした。

本当にとことん身体もメンタルも落ちていて12月に習っている心理学の先生のカウンセリングを受けてかなり気持ちが楽になったし、12月末に霊視の先生のお話を聞いてかなりつかえていたものが消えた気はしていたのですが、今度は身体の方がついて行ってません。

でも、メンタルが落ちていないのでなんとか乗り切れているのですが、でもこのメンタルが落ちていない状態のせいで家族からの理解は得られません・・・・・

娘は昨日からお仕事が始まって、夫は来週からです。

もう40年も一緒にいるのだからわかってはいるつもりではいましたが、夫の気の利かなさにいらだっています。

線維筋痛症も結局はストレス?が大きな要因らしいので、その原因は家族の事だろうな、と思います。

もちろん、仕事の事も頭をかすめていてイライラはしているのですが、でも最大は夫と娘の言動

と言うか態度だろうな、と。

またまた私は「一人になりたい」病にとりつかれています。

お正月が終わったら、もうないかもしれないけれどビジネスホテルの連泊セットに行きたいです。一人になりたい。いえ、家事、家族のお世話から逃れたい・・・

 

以前、肺炎になった時、突発性良性頭位性めまい症になった時、コロナワクチンで高熱が出た時、そして今回のインフルでも家族のありがたさは本当に実感しています。

でもそれよりも圧倒的に多い日常がつらいのです・・・・・・

やっぱり体が弱っているのでメンタルも弱ってきたのかもしれません。

 

明るく楽しい年明けはいつになるのでしょうか

守護霊様

霊視の先生に視てもらってきました。

いつも通り、娘の事ばかりで悩みを聞いていただきましたが、最後の最後に長年の私の懸案事項と言うか、実家の事とかさらには夫の実家とか、

具体的にはうちの息子が子なしを選択したことで、夫の家の跡取りはなくなるし、もちろん私の実家も私たち姉妹が嫁に行ったこと、父の弟の子ども(従姉弟)にも子どもがいない事で、結果、どちらの家系も途絶えます。なのでご先祖様の墓じまいだのと言う事がずっと気になっていました。

先生は「死んだ人は何も執着なんてありませんよ」と。家を残してほしい、とか家系を残してほしいなんて思ってもいない、むしろ墓や仏壇なんてない方がいい、と。

その流れで今、私を守ってくださっている守護霊様の話になりました。先生がおっしゃるには生まれてから死ぬまでずっと私の一生を通してついている方が二人いて、それは両方とも女性で、基本的には父方もしくは母方の先祖に当たる人で、おそらくは江戸末期から明治くらいの人とのことでした。それ以外に男性と女性が一人ずつついていて、今は4人体制で私の周りにいるそうです。メインの守護霊様がその時その時、力を貸してほしい方に声をかけて下さって入れ替わることもあるし、自分の縁のある人は時々、様子を見に来てくれているのだそうです。

守護霊様が望んでいるのはその人が亡くなる時に魂が上の段階に引き上げられることで、それを見守っているのだそうです。だからたとえ先祖をないがしろにしたからと言って、それで祟ったり害を成すことはなく、でも、やはり感謝をしてもらえれば喜んでは下さるそうです。

先生は霊視の時に私の胸のあたりをのぞき込んで病気とか怪我のメがあるかどうかを確認します。それ以外に私の頭の上を見ながら守護霊様と会話をするのだそうです。

私がいつもいつも同じところをグルグル回り続けていても、先生は少し苦笑いをしながら「仕方ないですよね」っておっしゃいます。ただ、何度も「自分のしたいようにすればいい」と。でも、その「自分のしたい事」がわからないのです。どうしていいかわからないのです。自分のしたい事だけをしているとそれは自己中で許されない気持ちになります。でも、先生は「人間は」全て自己中です、それが普通です」と。おそらく、先生も人によって言葉を選ぶと思います。私が自分の欲望のために人を蹴落とし、人を傷つけそれで平気な人間であるなら「好きなようにして大丈夫」とは言わないと思います。多分、私は親からの刷り込みもあって自分勝手で自己中な人間だと思い込んでいますが、どうやら私のやっている事程度ならカワイイもののようです。だから、やりたいことがあればやればいい・・・でも、そのやりたいことがわからない・・・

本当は誰かに振り回される人生なんて歩みたくない

でも、誰かの役に立っている実感が欲しい

だから、結局は自己満足のために自己犠牲を強いている

と言う事は、結局、私はやりたいことをやっているだけなのかもしれません。

 

それなら、あとはそれを自覚して「楽しむ」しかないのです。

 

たぶん私は賞賛が欲しいのです。

でも、その称賛は普通に生きているだけではもらえません。

とても美人であったり、スタイルが良かったり、頭が良かったり、スポーツができたり

一目で誰からも認められるような才能がないのだから、せめていい人のふりをするしかなかったのです。

 

そのいい人のふりが結局、全部否定されて壊れてしまったのが、娘の一件だと思います。

あれがなかったら、私は人のことなど考えずに、もっともっと自己中なまま、自分だけが正しいと思ってきっと幸せでいられたと思います。でも、今は自分だけが正しいのではないと言う事も学んだし、もっと大きな変化としては「いつも正しく生きなくてはいけないのではない」と言う免罪符も貰った気がします。

まだまだ、それをひけらかす勇気はありませんが、過剰な罪悪感にはとらわれないですみます。

私は、今でも自分だけ幸せになるのは間違っていると思っています。

自分の幸せはいつも周りの人の幸せがあってこそあるのだと思っています。

だから、自分が先に幸せになって、それから周りの人を幸せにすると言う中国の?先幸論?(先富論)的な考え方はできません。

でも、やはり自分が幸せでなければ、本当の意味で人の幸せを祈ることもできないようにも思います。

 

守護霊様とコンタクトを取ることは普通の人にはできないと言われています。

私は人に対する依存心が強いので、とにかく誰かに何かを決定してもらいたいのです。

自分で物事を決めるのが苦手、と言うか怖い

失敗した時にだれかに責任をなすりつけたいだけなのです。

そのために守護霊様ですら利用しようとしているのかもしれません。

 

私にできることは何だろう?

社会的に意義のあることをしなければ、自分は認められない、守られない…そんな思いから慈善活動をしています。

とても偽善的です。

だから、辞められません。

1円をケチるためにスーパーを駆けずり回るのに、月にトータルして1万円程度の寄付をしています。コロナの無職の時もそうでした。

とても偽善的です。

 

偽善であっても善は善。人のために為すと書いて偽なのだから、それでも何かの役に立っていると考えればいい、と。

 

でも、毎月の1万円の出費を惜しいと思ってしまう…… 

私はやっぱりそんな自分の人間性が嫌いです。

私の魂は今生の終わりに、守護霊様が望んでくださるような高みに少しでも近づくことができるのでしょうか?

インフルエンザ

罹ってしまいました、インフルエンザ

 

テストが終わって採点が終わって、調理実習でバタバタして、成績処理が終わって

他の先生に頼まれて代講を引き受けて、珍しく息子夫婦が私のお誕生日を祝ってくれると言うのでお受けして・・・

そのお祝いの前日に38℃の熱が・・・ インフルでした。

 

2019年の1月以来、記憶にある限りでは2回目のインフル。

前回がひどかったので覚悟していたので、その時よりはマシでしたが、年を取った分しんどかったです。しかも、今回は狭いマンションで隔離する場もなく・・・

急遽パソコン部屋になっている納戸に長座布団を敷布団の代わりにして身動き取れないくらいの寝床を作りました。

この究極に狭い空間(4畳弱にパソコンデスクと和箪笥、スライド3列本棚あり)に大慌てで買ってきた加湿機能付き空気清浄機を持ち込んでおこもりすること丸二日。やっと熱は引いたものの、最終の授業はお休みして、他の先生に課題をお願いすることとなりました・・・

ワタシ的には、善意で引き受けた水曜日の補講のクラスでやたらひどい咳をしている生徒が2名いて、そのせいでインフルになったのだとかなり落ち込みました。

しかし、インフルを報告したら主任の先生が、その前日に調理実習をしたクラスが、その翌日から学級閉鎖になっているので、そこで貰ってしまったんだね~と。

あとで調べてみたら私が怪しいと睨んでいたクラスは私の授業の翌日は8人も休んでいましたが、その翌日は3人のみでした。今日にいたっては2人です。もし、私と同じインフルだったとしたら私の発症が金曜日で出席停止が火曜までなのでその数字はおかしいかも…

ってことは、やはり学級閉鎖になった私の担当のクラスが原因だったのか・・・ このクラスは今日は解除にはなっていましたが出席停止になっている生徒がまだ7~8人いました。私の調理実習の日もすでに8名休んでいて2名早退きしたので、この時の生徒がインフルだったとしてももう解除で出てきているはずです。つまり今 出席停止になっている生徒と私が同じ時期に発症しているのかも・・・ 一番問題の多い苦手なクラスだったのにインフルまで移しおって!!と怒り心頭です。

とは言ってもギリギリ調理実習を終えることができたよかったし、1週間前だったら成績処理もできずテスト返しもできずで大変でした。結局のところ2クラス分の授業をお休みしてしまいましたが、主任の先生に補習監督もしてもらえたようだし・・・

ただ、あとで調べたら、生徒は発症から5日かつ解熱後2日までは出席停止ですが、先生に関してはそこまでではないようで、どうしても休めない場合は万全の感染対策をして出勤しても大丈夫のようでした。実際、今日はもう熱も下がってギリギリなんとか行けた気もします。本当のことを言うと最初はインフルに掛かったことは内緒にしてシレッと出勤しようかと思っていました。でも、もしバレて何かあったら…と不安になって、時間割変更にしてほしかったので早めに連絡してしまいました。結果として、時間割変更は不可能だったのですが・・・ ホンット、これなら無理して行けばよかった・・・ 3学期は真剣に授業数が足りなくて、このままならどこかで他の先生に貰うしかないです・・・ あ~あ、日曜のうちの連絡は勇み足だった・・・ 

・・・と思ったのですが、実際にまだ明日くらいまではウィルスを輩出している可能性がある時期のようです。私が調理実習と言う状況でも移ったのだから、どこかで誰かに移す可能性もあったかもしれません。それを防いだと言うのは正しい選択だったと思う事にします。

さらに、すっかり元気!と思っていましたが、朝ご飯を食べるために座っているだけで息切れがしていました。そう言えば昨日まではお布団の中で寝っ転がっておかゆを食べてたんだった・・・

てことは、歩いたり4時間も授業してたら帰ってこれなかったかもしれません。(幸い車が使える日だったけど、むしろ車の運転も危険かも)

しかたないので、今日明日はもう少しおとなしくしておきます。

 

ところで、このおこもり生活で極狭空間での睡眠が思いのほか快適でした。ベッドでないせいか寝やすい。熱のせいだったのかもしれませんがめちゃ眠れた気がします。なので、夏以外は(納戸なのでクーラーがない)ここで寝たい!って思っています。

そもそも寝室で寝る時、隣のベッドに夫がいるので電気や目覚ましが気になっていました。最近はいつも夜中に2回はトイレに行くのですが、寝室の扉が引き戸でこれを開け閉めする音が結構うるさくて、夫が目を覚ましそうで(時々私が動くと寝言と言うかうめき声をあげる)ものすごく気を使いました。これでさらにストレスが溜まり眠れなくなります。 それがこの空間なら自由!

もう、ずっとここで寝たいくらいです。そう言えば私は子どもの頃から狭い場所で寝るのが好きでした(笑) このせまっ苦しさがなんだか本当にワクワクします。

とりあえず旦那のオッケーを得たのでしばらくはここで寝ることにしよう!!

・・・と、思ったのですが

またここで不測の事態が・・・ またまたまたお嫁さんが「水曜日の夜に泊まりに行っていいですか」と・・・

しょえええええ~~~! ホンット、あれほど前の家には寄り付きもしなかったのに、便利になったらいいように使ってくれる・・・  一応、インフル明けなんだけど・・・ わかってるよね??? 念のために聞いても「もし移っても自己責任ですので大丈夫です」とのこと。

いつもお嫁さんに停まってもらう部屋はリビングダイニングの隣で朝ご飯作りをする時にかなり気を使います。そして、私の納戸と繋がっているんです。(引き戸はあります)

なので、彼女を泊めるとなると私が離れた方がいいと思うのでまた寝室に戻らなくてはいけません。寝室となるとパパと同じです。発症するまで同じ部屋に寝ていたのでいまさらと言う気はしますが、でも私はやっぱり私だけはしばらく隔離しておきたいんだけど……

結局、はっきりNOは言えず「そこまで言うんなら好きにして」と言う感じでオッケーを出したのですが、さてパパと娘にこの話をしたら激怒されそう・・・

でも、奴らも自分からはNOって言わないんですよね。ダメって言うのは結局私が連絡しなくちゃいけなくなる・・・ ヤダナぁ・・・ とりあえず、娘とパパがまだ発症はしていないけれど、様子見中だからお返事は保留で・・・とは言ってありますが どうなることやら・・・

 

これだけ振り回しておいて、保留になった私のお誕生日パーティとやらはしてくれるのでしょうか?(笑)

先月、母の米寿祝と言う名目で妹たちと私の三人でお金を出し合って二泊旅行に行きました。

その際に他県に嫁いでいる妹1の家にもうかれこれ20年は行っていないな~と思い、軽く「また一度遊びに行くわ」と言いました。そしたらパートで働く妹から「今月のシフトを出さなくちゃいけないからいつ来るか決めて」とラインが届きました。

ほんの軽口のつもりで具体的な日程も決めていなかったのですが、妹が提示した日にちなら前の方がいいな、と思い「〇日の方がいい」とお返事しました。で、妹はお休みを取り、今まで3か月待ちでしか取れなかったお店のランチも取れた、と連絡がありました。

しかし、その後 授業で調理実習の日程が決まり、さらに安請け合いで他の先生の授業の代講もすることになり、バタバタした挙句、突如 息子のお嫁さんが二泊することになり・・・ もうパニックになるくらいバタバタしていました。さらに期末試験の作成も進んでいない状況で、もう出かけるのもやめておこうかと言うくらいでした。元々、私はその妹とはあまり仲は良くなかったけど、でも、そろそろマンションに引っ越した事を妹の旦那さんを含め、話すべきだとも思っていて、そのチャンスは今回くらいだろうなとも思っていました。

で、一泊で妹の元へ行ってきました。

妹の家の最寄り駅まで行くつもりでしたが、新幹線も停まる駅の方が出かけるのに便利だからと車で30分ほどのところに迎えに来てもらい、その後 有名な並木道まで1時間ちょっとの距離。平日にもかかわらず、それなりに多くの観光客が訪れていました。そこをしばらく散策してランチを食べ、妹おすすめのお寺やケンミンショーでも話題になったと言うパン屋さんへ行ったり・・・ そして、イルミネーションで有名な施設を堪能して8時ごろに妹の家に到着して、妹が作っておいた晩御飯をよばれました。お寺あたりからかなり雨がひどくなり、イルミネーションはおかげで人が少なくて良かったと言えばよかったけど本当に凍える寒さでした。

実は今回、妹の家を訪ねようと思ったのは、本当に大きなお世話なのですが、ずっと妹が夫や長男と折り合いが悪く、普段からほとんど口もきいていないと言う話をしていて、気になったからです。車での移動時間のほとんどを妹がマシンガンで不平不満をぶちまけていました。(仕事の話とご近所の話が8割くらいだったけど) 

妹はぱっと見、ものすごくしっかり者でシャキシャキして見えます。私も子供の頃からずっと「しっかり者の妹」に面倒を見てもらったねーちゃん、と言う構図でいたと思っていました。

しかし今回の妹の愚痴を聞いているうちに本当にとことん、この子は我慢する子なんだと思いました。本当にびっくりするくらい理不尽な態度を姑や義兄一家、ご近所さんや職場の同僚にされているのに、何一つ言い返さず、結局、何もかも押し付けられて貧乏くじだけを引いているような感じです。一見、本当に何でも言い返すように見えるのに、嫌なことは全て溜め込みます。だから実家に戻って私たちの前になると本当に堰を切ったように愚痴が飛び出ます。

それでもなんだかんだで好きな相手と結婚したのだから、とそれだけは思っていたのですが、そのことを妹は全否定しました。「本当に切っても切っても捨てても縋り付いてくる相手で結婚する気など全くなかった」と。 ううう~~ん・・・ そう言えば高校時代もバスで一緒になった隣の高校の男子にものすごく纏わりつかれて困っていたことがあったなぁ、と。その時も「断っても断っても…」と言っていました。本当に一見、嫌なことはキッパリ断るように見えるタイプなので断ったとは言っても口だけでそれほど嫌じゃないのでは、なんて思っていました。

ダンナさんに対してもそうでした。何を言っても結局は自分で決めた事じゃないか、と。

でも、思い起こせば妹が結婚を決めた時、父はもうすでに死へのカウントダウンされた状態だったと言ってもいいと思います。私も含め周り全員が父が元気なうちに花嫁姿を見せてやってほしいと言っていたと思います。他県に嫁ぐこと、しかも夫の実家のすぐ近くに住むこと、そう言う事も全て見ないふりして「早く早く」とプレッシャーを掛けました。「どうしてもダメだったら戻ってくればいい」と決して許すはずもないのに、その言葉に押されて結婚して・・・ 本当に壮絶な嫁いびりと兄嫁からの意地悪も加わって 妹は前々から正月などに実家に戻ってお酒を飲むと「結婚してから何一つ良かったことなどない」と泣いていました。それを私も軽く受け流していました。

でも、今回、本当に久々に妹の家を訪ね、田舎の景色を見ているうちに私の中にも、どうしようもない切なさと言うか苦しさと言うか、妹の悲しみが流れ込んできてしんどくてしんどくてたまらなくなりました。

子どもは二人とも男の子で長男が色々あって同居しています。次男は大学院を卒業してから外に出て今は彼女と同棲しながら生活しているようです。

長男はうちの息子と同じ系列の会社で働いていましたが、メンタルを病んで退職し、こちらに戻って旦那さんのお兄さんの口利きで再就職したものの、それをやめてしまって、結局、今は運送会社で夜勤の運転手をしているのだそうです。

こんなことを言っては失礼でしょうが、10年程前の最初の就職先は関東で、彼は関西の大学院を出ていました。そこにいいた関東人は信じられないくらい関西人を馬鹿にする人たちだったそうで、それでメンタルを病んでしまいました。私も一度息子を訪ねたついでに彼の社宅に寄ったことがあるのですが、たかが1ルームの部屋がゴミ屋敷で、電気代、水道代の督促状が散らばっていました。社宅の隣にコンビニがあるのに、毎日、宅配のピザを取ったりしていたようです。大学院から家を出て一人暮らしをしていたはずですが、学生と社会人では環境が違ったのでしょう、東京での暮らしにはいかされていなかったようです。彼もぱっと見オチャラケキャラで容器に見えますが、実は妹同様、かなり繊細な子だったようです。妹はこの時期、地元の霊視のできる先生に「すぐに息子を連れ戻さないと取り返しのつかないことになる」と言われてたそうです。やはり妹も決断しきれずに、それでもギリギリ セーフのところで退職して家に戻りました。

妹は50歳くらいの時に、その先生に「今のあなたの周りには悪い人間しかいない。きっぱりと決別しろ」と言われて、その時は職場の人の事だとばかり思っていて、辞めるまで何度も紆余曲折ありながら、それでもやっとのことでその先生の言葉に従って職場を辞めることができたのですが、改めてその先生のところへ行くと「まだ、離婚していなかったのか!」と叱られたそうなのです。切り捨てろと言われた人間関係は夫と夫の家族が一番だったのでした。

でも、結局、妹はそれができなかった… その先生に「あなたは今までただの一度も自分の望んだ人生を歩んでいない、何一つ自分で決めて来なかった」と言われたそうです。

それを言えば、結婚を決めたところでもそうでした。それでも離婚しないと決めたのは結局、自分で選んだ答えだから、と。

妹が「何一つ自分で決めたことがない」と言った時、思い至ったのは高校受験の時

私も母が決めたところにあまり疑問も持たずに行ってしまいましたが、正直、私はその学校が気に入っていたので、母が妹にそこを勧めても「いいんじゃないの」と言う感じでした。実際に15歳の子どもにハッキリと将来を考える力もなかった気がします。

結局、妹は私と同じ高校に入学しました。私はその学校を出て大学に行きました。その後、妹は「大学に行かずに就職する」と言っていましたが・・・ ごめんなさい、この時、妹の進路を決定づけてしまったのは私です。その当時、私と妹はあまり仲が良くありませんでした。普通、自分が大学へ行って仲が良くない相手が高卒なら、それに対して物言いをするとは思わないでしょう。でも私は将来、妹が「ねえちゃんばかり大学に行かせてもらってズルい」と言い出されたらいやだ、と言う理由で「せめて短大くらい行ってよ」とごり押ししました。妹の方が私より成績もよかったので余裕で、うちの高校に案内が来ていた推薦入試はより取り見取りでした。実際に妹は私の行った大学よりレベルが上の女子大の短大に進みました。それもただ、私や親が「子の短大が一番、聞こえが良いから」と・・・(短大で旦那さんと知り合っています)

そして、就職は父親のコネです。ここでも、色々あってずいぶん辛い思いをしたようですが誰もそんないい所に就職しているのだから、と取り合ってもいなかった気がします。

妹が就職して2年くらいしたところで父が倒れました。私は嫁いでいて、下の妹は専門学校に生きながらやりたい仕事を探している所でした。母が一人で商売を切り盛りしていましたが、結局、妹が仕事を辞めて、実家の手伝いをすることになりました。その段階では、下の妹は働いていなかったので、上の妹が仕事を辞めるより下の妹がそのまま実家の手伝いをする方が現実的だったはずなのに、結局、上の妹はここでも「貧乏くじ」をつかまされたのだと思います。

さんざっぱら、いいように使っておいて、父親のリミットが近いから安心させるために嫁に行け、と・・・

同じ地域ならまだしも風習も何も全く違う他県の田舎で、本当に苦労したようです。田舎なので長男教で、次男の旦那さんも子供の頃から相当 邪険にされてきたようですが、それでも、田舎育ちなので理不尽な事を妹にも我慢させてしまいました。

田舎の集落は怖い、と言っていましたが、周りを見ても関西圏以外のところから嫁いでいる人もおらず、ずっと勝手もわからないまま、言われるまま・・・ それこそ我慢我慢我慢の連続で

 

今の季節になると天気が悪くなり気分が陰鬱になります。いわゆる「冬季鬱」と言う状態になるみたいです。

実際、私もたった2日、妹のところに滞在しただけで、お天気と、田舎の「氣」と言ってしまってはいけないのでしょうが、何とも言えない負の感情に押しつぶされそうになっています。

もやもや、もやもや湧き上がる言いようのない悲しさに押しつぶされそうです。

 

正直な事を言うとずっと、子供の頃からこの妹が好きではありませんでした。どちらかと言えば末っ子の方をかわいがっていましたが、今はその妹の方が苦手です。今回、マンションを買ったことを家族に言わなかった理由は下の妹の発言がきっかけになっていたからでした。今も自分勝手でありながら、結局まわりにかわいがられる下の妹に嫉妬と怒りを持っているのは間違いありません。

 

家に帰ってこの2日間の妹とのやり取りを夫や娘にくっちゃべりました。

正直言って、私も母の事やお嫁さんの事、そして夫や娘(本人たちには言っていない)に対する不平不満がありました。でも、ここが私の特性なのですが「自分より大変な思いをしている人がいるのなら我慢しなくちゃいけない」とチラッと言ってしまいました。

とたんに娘に「人と比べる事じゃないでしょう」と娘にとがめられました。私としては「前向き」な発言だったと言うか、自分を奮い起こす発言でした。私はいつも、そうやってつらい事を乗り越えてきました。自分より大変な思いをしている人がいるんだから弱音を吐いちゃいけない、と。それでまた頑張れる気力を無理やりでもチャージしてきました。でも、それをまた否定されてしまって、言いようのない泥の中にとごってしまった気分です。

 

私は昔から人の言う事に影響されやすい、流されやすいのだと改めて実感しています。

この陰鬱な気分から どうやって抜け出たらよいのかわかりません。

幸か不幸か12月の頭にカウンセリングの予約が取れているので、それまでは現実的な忙しさを優先して気を紛らわせます。

明日中に試験問題を完成させ、明後日には印刷を済ませ、12月頭の試験と試験監督、そして採点。(今回は4クラスだけなので少しは楽です)

本当は頼まれていた共通のプリント作りが暗礁に乗り上げていて放棄したいのですが、これがずっと頭を悩ませています。 

その後、成績伝票を提出し、今学期最後の調理実習を済ませ、3学期のプリントを作成して印刷・・・と言うのがちょうど1か月間の日程です。

グダグダしている余裕は全くありません。

無理やりでもこの負の感情を追いやらねば…… 

1年半

マンションに引っ越しして1年・・・と思っているうちに1年半が過ぎていました(笑)

夫が本格的にこちらに移動してきてからでもすでに11か月

正直言って、半別居だったときの方が快適でした。

狭い寝室でベッドは無理してツインにしましたが、それでも気を使います。特に私は時々不眠状態になり、どうにも眠れなくてスマホを開くこともあります。でも、夫が隣のベッドで寝ているので電気を付けずに布団をかぶることになります。

もちろん、本格的に眠れないと判断したらパソコン部屋へ移動しますが、これをしてしまうと本当に朝まで眠れなくなります。今は週に2日だけのお仕事なのでいいのですが、以前のように5日間行っていた時は極力、寝室から出たくありませんでした。なので、これが本当にストレスです。

娘は夫が手持無沙汰そうにリビングでどうでもいいテレビを見ているのにイラっとするようです。私もいわゆるテレビっ子世代なので娘に比べればテレビが好きです。ここ20年はひたすらPCだったのでテレビはあまり見ていませんでしたが、最近は撮りためておいたドラマを見たりしています。(普段リアルタイムで見ているのはひたすらバラエティ) 

夫は本当にただ単に時間つぶしなのかザッピング?を繰り返しているし、あと少しで終わる、あと少しで結果が出ると言うようなタイミングでブチっとスイッチを切ったりもします。思わず「なんで!?」って仕方なく付き合って眺めていたこちらが切れてしまいます・・・

本当に申し訳ないけれど「邪魔くさい」

あと、娘と私が去年、本当にバタバタと向こうの家の引っ越し準備や、マンションに引っ越してからも必要な物を買いそろえたり作ったりしていたのですが、一切手伝いをしませんでした。なので、夫がこちらに正式に越してくる時も「絶対に手伝ってやるか!!」って思っていたのですが、そうすると本当にカケラも片付けると言う意識がないせいか、何でもそこらに放置です。結果として娘と二人でキーキー言いながら夫のコーナーを整えることになりました。

元々、前にいた家も家の中にある8割は私の物でそのうち9割は使っていないもの、と言っていましたが、結局、このマンションにおいても、ほとんどが私の物で溢れ、どこもかしこも私が独占しています。それは認めます。でも、寝室の北側に趣味の手芸をするためのコーナーを作ったのですが、ここを1度リモートの時に「使ってもいいよ」と言ったら、それからPC2台を置いてずっと使っています。今は夫の書斎と言う感じです。もちろん、たかが6畳程度の寝室の一角なので狭いです。4畳ある納戸をPC部屋として独占的に使っている私が文句を言える立場ではないけれど、でもPC部屋にしてもその「趣味コーナー」にしても、全て私が(娘がちょっと手伝ったけど)整えセットしたのです。本当に、何一つ手伝いもしてくれなかったくせに、当たり前にそこを占拠していることが許せません。当然ですが、掃除の一つもしません。リモートの日だって以前のようにラウンジに行ってくれれば、心置きなくテレビも見れるけれど、狭いマンションでリモートで仕事をしている人をしり目にテレビも付けられずこれまたイライラ・・・

夫に対するいら立ちばかりではありません。

娘は12月まではなんとかお仕事が続きそうですが、その先はわかりません。家にいた時は食事の支度をしてくれていたし、お掃除も頑張っていました。なので? 掃除の細かい所に今もキーキー文句を言います。今は週に2日のお仕事なので応えることができるようになりましたが、そもそも掃除の苦手な私は、このお掃除がストレスです。

でも、以前の家に比べれば、家事に関する労力と言うか使命感と言うか片付けられない罪悪感は段違いに少なくて助かります。いまだ、古い家の片付けが済んでいないことが気にはなりますが、とりあえず、荷物沖にはなっているし、何より、私の中にまだ「土地」に対する執着がある以上、古い家は残しておきたい気がします。

水道代が2か月で1100円、電気代が月に2500円、これに固定資産税で年間の維持費は10万程度です。荷物置き場にコンテナルームを借りるよりはいいかな、と言う感じです。まあ、それでもここ数年のうちには処分しなくてはいけないだろうなと思ってはいます。

話は逸れましたが、娘の神経質なお掃除に対する脅迫は家が新しい分、要求が厳しいです。壁に小さなシミひとつ、床に落ちた髪の毛ひとつにも文句を言います。特に水回りにはうるさくて洗面所の鏡が汚いとヒステリーを起こします。「今までは我慢してたけど」って言うけれど、前の家も今も結局「家事はお母さんの仕事でしょ」って意味合いだと思います。自分の部屋だけきれいにしておけばいいのであれば、私もどこかの家に居候したいです。よその家だから勝手に障るわけにいかないでしょうが、でも、私だったら居候しているなら自分のためだけ意外にも家事くらいするけどな・・・ 2019年の1月~2月、実家に居候してた時はそれなりに手伝ってたし・・・

ああ、また、あの時みたいに実家に行きたくなってきたかも・・・ あ、でも引っ越していること言ってないし、今のタイミングで実家に行くと妹に「このまま、こちらに住めば?」って言われてバァバの面倒を押し付けられそう・・・ くわばらくわばら 近づかないでおこう・・・

 

さてさて、話は大きくそれましたがマンション暮らしのメリットもこの1年半でしっかり味わっています。

 

マンションライフは、意外に光熱費が安くて驚いています。今までは夏になると電気代が1万円を超えていましたが、今年は本当に毎晩、朝までクーラーをつけっぱなしだったのに、多い月で6000円程度です。ガスコンロを使いたくないのでIH調理機を使っていてもそれです。なのでガス代はお風呂だけで月に2500円程度。前の家の時でもお風呂だけでしたが少ない月でだいたい5000円程度でした。上下水道代は3500円程度。前の時は上水道だけで3000円。これに浄化槽の点検と掃除代が年間で25,000円程度かかります。そう考えると前の一戸建ての半分とは言いませんが7~8割で済んでいる気がします。あ、これに前の家の時に使っていた「灯油代」を加えると、やはり光熱費全体で以前の半分で済んでいる感じです。何しろ去年は暖房は「ごろ寝マット」をたま~に使った程度だったので(笑) これから寒くなりますが以前ほど「風邪ひき」の恐怖におびえなくていいのも助かります。とにかく、非常勤講師と言う仕事は「休めない」のです。正規の先生なら時間割変更とかして授業数を確保できると思うのですが、非常勤はなかなかそういうわけにはいきません。一応、非常勤講師でも「有休」と言うのがあるのですが、かれこれトータルすると25年はやっていますが、有休を使ったのはまだ子どもが生まれる前にゴールデンウィークに海外旅行をするために2日、義母が亡くなった時1日と、息子の中学の卒業式の時1日だけでした。それが2019年の1月にインフルエンザで2つの学校で合計5日と言うかつてないお休みをもらいました。いずれにしても 25年間で10日に満たない取得率です。もちろん時間割変更で別の日に振り替えてもらったりもしているのですが、でも、そうでないと本当に授業が回っていかないので有休を取ると言う選択肢がありません。まあ、特殊と言えば特殊ですが、それでも本来は有休は正当な権利のはずなので取ってもいいのですが、でも取れない・・・ 取ったら自分の首を絞めることになるし・・・ と言う事で、夏の暑さは何とか乗り越えられるけれど、冬の風邪っぴきは何が何でも避けたい、と冬になると本当に異常に気を使います。それが去年は本当に「皆無」と言う状況で、それだけでマンションに引っ越したメリットが最大にあったと感じました。

 

あとは、本当に家の中で階段の上り下りをしなくていい事、道が平らな事、生活施設が豊富で近い事などなど

今日も娘に頼まれたお薬をもらいに薬局へ行ってきましたが徒歩5分程度です。スーパーはエントランス出たら1分だし、コンビニも徒歩5~6分で、近くにヤマトの営業所があるのでメルカリに便利です。お役所には自転車で15分かかるので前の時の1.5倍ですが思ったほど用事はありません。イオンまで自転車で6~7分で行けます。本当に生活面では便利です。

ただ、ひたすら道路がウルサイのだけが難点です。世間の人は窓を閉めっぱなしにしているので大丈夫かもしれませんが、私はできるだけ窓は開けたい人なので、これだけは慣れません。

実家にいた時は目の前を国道が走り、大型車が通れば2階は震度2~3程度の揺れになります(実家近辺は江戸時代は海岸だった) 時代的に毎週末に暴走族が走り回る、と言う事もありました。夫はこの騒音と揺れのために私の実家に泊まることを嫌がっていたみたいです。(無理やり泊まらせていたのか・・・)

人生の折り返しを過ぎ、体のあちらこちらにガタが来てそれこそ元気で過ごすリミットへのカウントダウンに入ったように思います。健康寿命は男性72.68歳、女性75.38歳なのだそうです。うちの場合は夫は大丈夫でしょうが、私の方が先にガタが来そうです。自由に動き回れるのもあと10年か・・・ 体の丈夫なうちに本当に自分の好きな事だけすることができるなら・・・・・・

何度何度くりかえしても、やっぱり私は大手を振って「自分だけの楽しみ」に没頭することができません。

娘の状況が落ち着いているとは言っても将来は心配になるし、今一番ストレスなのが、やはり夫との生活。正直、夫の稼ぎがあったからこそ、今の生活があって、夫がいなければ私なんてこの先生きていくのだってしんどいと思います。わがままで暴君なのは私の方なのに、それでも永遠に「自由になりたいけどなれない」思いにとりつかれています。

 

でも、そもそも自由ってなんだろう?

たとえば物理的に自由になったとしても私の心はしがらみから抜け出せないと思います。

なぜ、なぜ、なぜ・・・

 

最長で残り30年の人生(笑) 現実的に自由でいられるのはおそらく残り10年。

10年なんてあっと言う間です。この1年半のほんの7倍です。めちゃ早いです。

10代から続いている自分探しは完結しないままに終わりそうです。

 

 

 

 

 

気分の浮き沈み

女性のメンタルは生理周期の影響をかなり受けると思うのですが、私が閉経してかれこれ10年になります。

さすがに「更年期」と言うものの影響もなくなっているはずです。

 

しかし、ここのところ、本当に「周期的」に体調と言うかメンタルの不調が起こります。

色々考えた結果、「気圧の変化」が影響する、と言うのが一番しっくり来ています。

 

でも、本当は一番は「娘の動向」なのだと思います。

娘は元々生理周期でメンタルがおかしくなるタイプでしたが、今は「双極性障害」(躁うつ病)と言う診断を受けているので、まさに躁と鬱の切替わりで言動に激しい差が出てきます。

その娘の状態に引きずられ私も娘のメンタルが落ち込むことで私のメンタルも落ち込む、と言うのを繰り返しているようです。

そもそも私も思春期頃から自分が躁うつ病なのでは?と思っていたくらい基質的にはその傾向がある気がしています。

それでも普通に結婚して普通に子どもを産んで普通に暮らして・・・ 

そうできていたと思います。それは自分の力で努力で何とかなる物だ、と

 

でも、今の娘の状態が始まってかれこれ15年

娘の『病気』は一生付き合わなければならないものなのだ、と思っています。

長い長いトンネルの時代には全てが元をただせば自分の責任で一生涯、その罪は背負わなくてはいけないようにも思っていました。

でも、今は もう私のすべきことは「見守る」だけで、あとは娘は娘の、私は私の人生を歩んでいくべきだと思えるようにはなりました。

でも、あくまでも「そう思うべき」で頑張っている感じです。

私は「~すべき」で生きてきて きっとこれからのこの呪縛からは逃れられません。

常に自分がしたい事よりもすべきこと、しなくてはならない事を優先してきました。おそらくこれを取っ払って「自分のしたい事だけをする」と言う人生を歩むことはできないと思います。多少でもそういう方向に動けばやはり罪悪感にさいなまれるでしょうし、それがあれば本当に人生を楽しむこともできないでしょう。

私は今の気分の沈み込みを「仕方ない事」と受け入れることはできます。でも それがなくなることはないと諦めることも同時に受け入れています。

今まではどちらをも否定していて、それができないから余計に苦しかったのですが、少なくとも今の状況は「仕方ない」と思う事で落ち込みはかなりセーブできます。

ただ、それはあくまでも「自分」だけの話で、結局目の前に、自分をコントロールできずに苦しむ娘がいる限り、自分の幸せだけを求めることなどできません。

 

私は今まで、どれだけ嫌なことがあっても逃げ出してはいけない、と言う感覚で生きてきました。嫌な事だからこそ、やらなくちゃいけない、それを克服してから自分のやりたいことをするべきだ、と。でも、実際には嫌なことは嫌な事で、どんどん先延ばしにしてしまって、嫌な気分とか焦燥感と責任感が意識のある間中はびこっています。楽しい事をしていてもその裏で現実から目をそらしている罪悪感を感じていて本当に心から楽しい事だけをしている、と言う意識はありませんでした。

霊視の先生は常に「あなたはあなたの人生を役割を捨てた人生を歩みなさい」と言います。でも、その一方で、役割を演じることが私のいきがいであることも指摘されました。それなら、その役割を演じ切るのもあなたの人生だ、と。

以前、友人に「その先生の言っている事なんてどっちつかずの誰にも当てはまる、誰にでも言える程度の事」って指摘されましたが、確かに彼女の言う通りではあると思います。でも、その一方で誰もが知っている当たり前の真理であったとしても私はそれを「顕在化」「明文化」することができずにいて、その先生が言ってくださったことで初めてストンと理解できたのです。先生は娘の面倒を私が一生涯見ると言う未来もありうる、と言いました。その時は全く考えたこともなかったので唖然としましたが、今の生活を見ていると確かにそういう道もありそうだ、と思えてきました。それをまた「そう言われたから、そういう風に向かってきただけ」と言うのであれば、言霊の力自体が信じられる、と言う事になりそうです。だったら、その言霊の力を信じて

「この先、私の人生は良くなる一方。豊かで幸せな老後を送る!」とキッチリ宣言したいと思います。

 

今日は長かった残暑の影響が抜けて? どうも湿気が少なくてさわやかなお天気なので、気分が上がっているのかもしれません(笑)

ただの顧客? 知人? 友人?

昔、保険のオバサンをしていたころの同僚となんだかんだでつながっています。

かれこれ30年以上になります。

元々私は別の支部に出向していましたが、そこで退職を決意して辞表を出したら、とりあえず元の支部に戻されました。

別の支部は基本個人で動きますが、田舎の支部は二人組が原則でした。で、組んだのが同い年だったAさんです。

彼女もちょうど私と同じくらいの経歴で学年も一緒でした。シングルマザーで一人娘がうちの娘と同い年と言う事もあって、それなりに親近感はありました。

でも、ハナからもう仕事を辞めるつもりだった私は、あまり積極的には活動しておらず、それでもなぜか支部長に気に入られていて担当を地元の市役所にされました。で、Aさんを付けてくれたのですが・・・ とにかく、私は支部での地元密着の営業には慣れていなかったし、怖いおねー様がたがいっぱいの支部は顔を出すのも嫌で、朝礼が終わったらとっとと家に戻り、市役所のお昼時間だけ彼女と組んで出向いていました。

正直、契約はほとんど取れませんでした。基本、契約が取れれば折半なのですが、たとえば超ベテランさんと新人で組んで7:3と言う感じもありました。ベテランさんからすれば本来は一人で全部なのですが、新人育成のためにそうなっていたみたいです。彼女も私が行く前は超ベテランさんについていて言い方は悪いけれどおこぼれをいただいて1年をこなしました。1年は超ベテランさん、2年目以降は同じくらいの人と組むみたいですが、私は別のところでひとりでやっていたのでシステムがわかりませんでした。数か月ほとんど契約が出ないまま、仕方なくそれぞれが自分や身内の保険を出させられ(契約は必ず最低でも月に1本は出さなくてはいけなかった)それこそネタが尽きた状態でした。でも私はもうやめるつもりだったのでそれでクビになるならそれでいいや、と思っていました。それでも、たまたまその頃が一時払い養老の金利が良かった最後くらいの時期で、(正直、保険のオバサンにとって養老保険は成績に響かない損な商品なので見向きもしない人がいる中で)少しずつ、それを拾って数か月は食いつないでいました。それがもう出せなくなってからはキッパリ「欠勤」を決め込んだのですが(辞める意向は半年以上前から伝えている)、欠勤中でもとにかく成績だけは出させられました。その時、苦肉の策で15年満期の一時払い保険に加入したのですが、のちのちこれは所謂「お宝保険」の一種となりそれを満期で受け取った時には入れたお金の倍以上になっていました。今は100万円預けても利息は数千円ですから、本当にありがたかったです。なので、私は当時私が、契約した方たちには感謝されているだろうな、と思っています(笑)

 

相変わらず前置きが長くなってしまいましたが、お昼だけとは言え毎日一緒に活動していたAさんから、ある時「お願いがあるんだけど、市役所の担当、全部私に譲ってくれない?」と。実はその時、辞めるつもりではいたけれど、それでも私の担当を全部持って行こうとする彼女にちょっと不信感と言うか苦手感を持ちました。結局、いい顔しい? もしくはNoが言えない私は「私は構わないけれど・・・」と答えるのが精一杯でした。結局、彼女が支部長に私のオッケーがあると言う事で報告したのですが、却下されたようです。

最終的には3月の末ぐらいから私はほとんど出社せず、運良く?4月から母校の高校の非常勤講師のオファがあり引き受けました。月に65000円くらいのお仕事でしたが、週に4日の勤務だったのでこちらに変わっても保育園に子ども(この時は上の子は小学生)を預け続けることができそうでした。

私の他にも同じように辞めると言っても半年以上食い止められていた人がいたのですが、彼女より先に私の退職が認められたのが5月半ばだった気がします。もう実際に別のところで働いているので当たり前かもしれませんが、実は6月にボーナスが出るので、その前にクビを切ってしまおうと言う事だったようです。実は先ほど書いた「養老保険」を次のボーナスの査定期間中に自分のも含めて6本売っていました。なので、それなりのボーナスがその6月には貰えるはずでした。どれだけ辞めると言っても辞めさせてくれないので、それならいっそボーナス出るまで籍を置いておくか、と思ってもいたのですが、ボーナスの出る前に切ってきたか、と言う感じです。でも、辞めていいと言った時に辞めなければ、6月まで籍を置くために5月分6月分のあと2本は何かしらの契約を出させられるところでした。今でこそ、こんなに金利が下がってしまうなら、無理をしてでも一時払いに入ればよかったと、と思う人がいるかもしれませんが、当時はこんな事態になるとは思ってもいなかったので、身内には誰にも勧められませんでした。(保険のオバサンは身内をぐるっと入らせてタマが尽きたらやめてもらって結構、の世界でした)

もしも、未来が見えていたら(笑) あと2件、誰かに一時払い養老の保険に入ってもらって私もボーナス(50万くらい?)もらって、丸く収まり、保険に入ってもらった人には10年後に感謝してもらえてたのに(笑)

 

まあ、私の人生なんていつもそんな感じで「ハズレ」だなぁ、と感じます。

株にしても本当にあるあるですが、自分が売った途端に爆上がり、って事が良くあります。

せこく1万円の利益が出たから売ったら、その翌日には3万円の利益が出て、そのまま放置したら倍になっていた、って感じです。娘には「手放したんならもう、後々しつこく見なければいいのに」って言われます。そう、ホンット私は株の売買には向いていないと思います・・・

 

なかなかAさんの話に辿り着けませんが

私が辞めてから、数年して彼女はIさんと言う人と組んで、ちょくちょく我が家に顔を出すようになりました。このIさんが、めっちゃ穏やかで朗らかで感じのいい人なのですが、それなりにやり手で、なんとなくいつも「お願い~!」で、結果として子どもたちが成人する頃にそれぞれの保険に入ったり、夫の保険の見直しやら金利が悪くなったとはいえ、定額よりはマシな一時払い終身保険等々に加入したり転換をしたりそれなりにずっと顧客として付き合ってきました。

私は片付けのできない女だったので、彼女たちが来てもほぼほぼ玄関先で話すだけでした。実際、上にあげる時は契約まで持って行かれることが多かったので警戒していたせいもあります(笑)

もちろん、「見るだけでいいから見て~」と言われて、断った件数も半端はありません。自分が保険のオバサンをしていた事があるので、設計書を作るノルマ、訪問のノルマ、リクルートのイベントのノルマなどなどいろいろあることも知っていたので、協力してきました。

毎年、カレンダーを必ず届けてくれるのもありました。

契約書はいつも Iさんの名前で、連絡してくるのもIさんで、いつも来るときは二人でやってきますが、Iさんが来れない時だけAさんが単独で来る、と言う感じでした。彼女だけで来ると、同い年の娘がいるせいか、よく娘の話になりました。思い起こせばうちの娘が摂食障害ガリガリだった時にも顔を合わせているようで、ついこの間 「あの時は聞けなかったけど、大変だったのでしょう?」と

 

そう、半年くらい前にIさんが退職して故郷に帰ったとAさんから連絡がありました。正直、Iさんから連絡も挨拶もなしだったのはちょっとショックでした。私はたぶんIさんだったから、保険に入っていた経緯もあるので。Aさんとだけだったら、今までもつながっていない気もします。

しかし、そのAさんがIさんなしでアプローチしてくるようになりました。

保険関係なので住所変更はしなくていけなくて、家族にも話していない引っ越しを告げました。で、毎年年末にカレンダーを届けに来てくれるのですが、前回はまだ夫が前の家にいたので、そちらに届けてもらいましたが、今後はマンションの方に持って行くね、と言うような話になり、「家族にも言っていなくてほとんどだれも着たことないの、良かったら来てね」とワタシ的には年末のカレンダーを想定しての話だったのですが(笑) 「うわ~、行きたい~~! いつならいい?」と言う話になり、なんとなくぼやかしていたのですが、ま、いっかとオッケーして、先日午前中にやってきました。何だかんだと世間話をして、次第にお互いの娘の話になり、彼女も今、娘さんの事で思い悩んでいることがある、と話してくれました。そんなこんなで午前中からお昼も食べずに2時過ぎまで話し、最後にチラリと保険の話をして席を立ちました。

駐車場に送っていく途中で「で、どうする?」と契約の話に・・・ 確かに私も多少、いい顔をしたのですが、それほど乗り気ではありませんでした。でも、なんて言うか4時間も30年前からの話をして彼女が実は誰にも話していなかったと言う娘さんの話も聞いてしまったし、なんとなく無下にも断れず、後日また、と。

で、仕事のある先日、私の学校まで迎えに来てくれました。

正直ここまで来たらもう「契約」しかないです。気持ちは半々でしたが「ま、いっか」で一時払いの終身保険の契約をしました。

正直、私はリーマンショックの時に手を出した株でマイナスを抱え込み、その後に追い打ちをかけるように先物取引でやられ、ぶっちゃけると1200万ほどのマイナスを抱えました。その後は本当に塩漬けで1200万のマイナスのままでしたが、1000万程度のマイナスになったころに東日本大震災でまた元の木阿弥、アベノミクスで少しずつ取り戻した矢先に今度はコロナ・・・

しかもこの時私はインバウンド目的でJALとかJRとか旅行産業に大きく入れており、さらに信用取引ユニクロを買った時に韓国での「No JASPAN」 ・・・・なんて言うか、ホント株選びがへたくそすぎます。そして踏ん切りがつかないので、塩漬けにして傷口を広げ、もうどうにもならなくてマイナスを確定したとたん、それが値上がりし始め、あと1ヶ月も我慢すれば、マイナスだけはなんとか免れてたはずなのに・・・と言う状況でした。

複数の証券会社を使っていたので、それを清算するためにマイナスを確定して終わった分が500万くらいあります。それ以外に二つ大きなネット証券に残してありますが、一つはなんとかギリギリマイナスがなくなったくらいだと思っています(ここは履歴が3年分しかたどれないので今までの経緯がわからない) もう一つもあと少しでマイナスがなくなりそう、と思っていたのに、ばかな信用取引を掛けてしまって、すぐに損切りすれば良かったのにズルズル持っているうちにマイナスが200万に増えてしまいました。 結果として、おそらく今現在私が抱えている マイナスは700万くらいです。株で損した分はなんとか株で取り戻したいと、粘るうちに身動きが取れなくなり…きっとこんな感じで深みにはまっていくのでしょうね。

とっとと清算してしまえば早いのに、マイナスの株を置いたまま、普通預金にもいくらかのお金を残していました。

その普通預金に入れておいたのは、他に置いておくところが見つからなかったせいです。投資はほんとうに懲り懲りしているし、証券会社に入れてしまえばまた無謀な取引をしてしまいそうです。正直、株取引に手を出さなければ普通にあと700万はあったはずなのに、と思います。でも、その700万があったとしても そもそも、私のお金は常に「老後のため」でした。その老後と言うのももはや「娘の将来」=娘の老後を見越してのお金です。使う予定のないお金なのです。だったら、それを30年運用しないか、と言う話でした。外貨建てなので 正直 円安が最高潮の今、やる物ではないと去年、とても親身に話を聞いてくれたフィナンシャルプランナーのオジサンにも断ってしまったものでした。実際にはその時の方が今より円安がひどくなかったので、その時に契約しておいた方が良かったのかもしれません。でも、そこがやはり一見の人と、なんだかんだで30年の付き合いのある相手の違いでしょうか。最終的に彼女の提案に乗りました。

彼女は私と組んでいた時のことはもうすっかり忘れているようですが、私は彼女と一緒に仕事をするのが本当に苦痛でしたし、その後も、ちょくちょく保険の話をされるのが苦手でした。

さすがに、今の年になったら入る物もないし、とここしばらくは保険にも入っていませんでしたが(医療保険は何度も進められたけど断りとおした) 結局、またご縁ができるのか・・・ と

彼女に「来て」と声をかけてしまったのは、今まで私の保険の受取人が夫になっていたのですが、それを子どもに変えたいと前々から思っていて、霊視の先生の見立てで私の方が夫より先に死ぬのであれば、夫の遺産の二次相続で子どもたちに不利になるな、と思ったからです。

もちろん、それはネットとかでもできるので自分でやっても良かったのですが・・・

まあ、担当の人がいるし、と言う事で彼女に任せるか、と思ってしまったのです。ぶっちゃけて言ってしまうと、今まであまりに大きな損失を抱えてばかりだったので、30年後にこの300万が消えてしまっていても、まあ、仕方ないか、なんて思っている自分がいます。

実は以前、学校関係で協栄生命の貯蓄型の保険に入っていました。しかし、それが破綻して、吸収された時に、たしか額面の2/3 くらいになった気がします。この時は貯蓄型のものほどダメージが大きかったように思います。なので、いくら業界トップともいわれる老舗の保険会社でも今のようにネット生命の躍進もあり、必ずしも安泰ではないのかと心配していました。実際、個人年金も30年後に本当にもらえるのか、と思っていましたが、とりあえず10年確定のうち2回ほどは入ってきたのでホッとしています。でもそれ以外はほとんど終身なんですよね。私の寿命はまだ30年あるので、その時にどうなっているのか・・・(笑)

まあ、いずれにしろ30年後の話です。

株のマイナスはもうキッチリ確定して諦めた方がいいような気もしていますが幸か不幸か今も700万のマイナスを抱えながら300万のお金を吐き出してもなんとかなっています。

その300万でつながったAさんとの付き合いは単なるビジネス関係なのか、知人と言う感じなのか、もしかして逆に彼女が退職したら友情?みたいなものになるのか、とも思ったり・・・

今回、前にも書いた50年来の友人より彼女と話していた方が楽しいと感じたのは久しぶりだったせいだけでしょうか

 

人間嫌いで極力人と付き合いたくないと言っていながら、私は何をやっているんだ? と言う感じです。