霊視の先生に視てもらってきました。
いつも通り、娘の事ばかりで悩みを聞いていただきましたが、最後の最後に長年の私の懸案事項と言うか、実家の事とかさらには夫の実家とか、
具体的にはうちの息子が子なしを選択したことで、夫の家の跡取りはなくなるし、もちろん私の実家も私たち姉妹が嫁に行ったこと、父の弟の子ども(従姉弟)にも子どもがいない事で、結果、どちらの家系も途絶えます。なのでご先祖様の墓じまいだのと言う事がずっと気になっていました。
先生は「死んだ人は何も執着なんてありませんよ」と。家を残してほしい、とか家系を残してほしいなんて思ってもいない、むしろ墓や仏壇なんてない方がいい、と。
その流れで今、私を守ってくださっている守護霊様の話になりました。先生がおっしゃるには生まれてから死ぬまでずっと私の一生を通してついている方が二人いて、それは両方とも女性で、基本的には父方もしくは母方の先祖に当たる人で、おそらくは江戸末期から明治くらいの人とのことでした。それ以外に男性と女性が一人ずつついていて、今は4人体制で私の周りにいるそうです。メインの守護霊様がその時その時、力を貸してほしい方に声をかけて下さって入れ替わることもあるし、自分の縁のある人は時々、様子を見に来てくれているのだそうです。
守護霊様が望んでいるのはその人が亡くなる時に魂が上の段階に引き上げられることで、それを見守っているのだそうです。だからたとえ先祖をないがしろにしたからと言って、それで祟ったり害を成すことはなく、でも、やはり感謝をしてもらえれば喜んでは下さるそうです。
先生は霊視の時に私の胸のあたりをのぞき込んで病気とか怪我のメがあるかどうかを確認します。それ以外に私の頭の上を見ながら守護霊様と会話をするのだそうです。
私がいつもいつも同じところをグルグル回り続けていても、先生は少し苦笑いをしながら「仕方ないですよね」っておっしゃいます。ただ、何度も「自分のしたいようにすればいい」と。でも、その「自分のしたい事」がわからないのです。どうしていいかわからないのです。自分のしたい事だけをしているとそれは自己中で許されない気持ちになります。でも、先生は「人間は」全て自己中です、それが普通です」と。おそらく、先生も人によって言葉を選ぶと思います。私が自分の欲望のために人を蹴落とし、人を傷つけそれで平気な人間であるなら「好きなようにして大丈夫」とは言わないと思います。多分、私は親からの刷り込みもあって自分勝手で自己中な人間だと思い込んでいますが、どうやら私のやっている事程度ならカワイイもののようです。だから、やりたいことがあればやればいい・・・でも、そのやりたいことがわからない・・・
本当は誰かに振り回される人生なんて歩みたくない
でも、誰かの役に立っている実感が欲しい
だから、結局は自己満足のために自己犠牲を強いている
と言う事は、結局、私はやりたいことをやっているだけなのかもしれません。
それなら、あとはそれを自覚して「楽しむ」しかないのです。
たぶん私は賞賛が欲しいのです。
でも、その称賛は普通に生きているだけではもらえません。
とても美人であったり、スタイルが良かったり、頭が良かったり、スポーツができたり
一目で誰からも認められるような才能がないのだから、せめていい人のふりをするしかなかったのです。
そのいい人のふりが結局、全部否定されて壊れてしまったのが、娘の一件だと思います。
あれがなかったら、私は人のことなど考えずに、もっともっと自己中なまま、自分だけが正しいと思ってきっと幸せでいられたと思います。でも、今は自分だけが正しいのではないと言う事も学んだし、もっと大きな変化としては「いつも正しく生きなくてはいけないのではない」と言う免罪符も貰った気がします。
まだまだ、それをひけらかす勇気はありませんが、過剰な罪悪感にはとらわれないですみます。
私は、今でも自分だけ幸せになるのは間違っていると思っています。
自分の幸せはいつも周りの人の幸せがあってこそあるのだと思っています。
だから、自分が先に幸せになって、それから周りの人を幸せにすると言う中国の?先幸論?(先富論)的な考え方はできません。
でも、やはり自分が幸せでなければ、本当の意味で人の幸せを祈ることもできないようにも思います。
守護霊様とコンタクトを取ることは普通の人にはできないと言われています。
私は人に対する依存心が強いので、とにかく誰かに何かを決定してもらいたいのです。
自分で物事を決めるのが苦手、と言うか怖い
失敗した時にだれかに責任をなすりつけたいだけなのです。
そのために守護霊様ですら利用しようとしているのかもしれません。
私にできることは何だろう?
社会的に意義のあることをしなければ、自分は認められない、守られない…そんな思いから慈善活動をしています。
とても偽善的です。
だから、辞められません。
1円をケチるためにスーパーを駆けずり回るのに、月にトータルして1万円程度の寄付をしています。コロナの無職の時もそうでした。
とても偽善的です。
偽善であっても善は善。人のために為すと書いて偽なのだから、それでも何かの役に立っていると考えればいい、と。
でも、毎月の1万円の出費を惜しいと思ってしまう……
私はやっぱりそんな自分の人間性が嫌いです。
私の魂は今生の終わりに、守護霊様が望んでくださるような高みに少しでも近づくことができるのでしょうか?