友人

私はあまり人付き合いが好きではないので、友人、と言っても誰を呼べばいいのかな、と。

結婚式には小中学校の友人1人、高校の友人2人(いつも一緒にいたもうひとりが全く同じ日に結婚だったため)大学の友人4人を呼びました。大学を卒業後すぐだったせいで、約1名、しつこく自分を呼んでくれ、と言う人がいましたが、ぶっちゃけ私は彼女には迷惑しかけられた覚えがなく、最後まで断り続けました。私の優柔不断な性格を知っている他の友人からは「まさかあなたが、あそこまで拒否できるとは思わなかった」と言われました。

そう、彼女(A)と関わってろくなことなどありませんでした。女子大だったのですが、あこがれの先輩がいて、その先輩の信奉者というのだけが共通点でした。正直言えば、そのあこがれの先輩に自分一人ではアピールできなくて彼女がいてくれたおかげでお話とかする機会があったので、彼女に感謝していないことはないですし、今から思えば私も彼女を利用していたのかも知れません。なので、私がサークルを辞めた後、彼女が他のメンバーに迷惑をかけまくって退会を迫られたときには、なんとかとどめてあげてくれないか、と上部に掛け合ったりもしました。その時に「あなたこそ、あれだけ迷惑をかけられて彼女をかばえるね」と・・・ 部長は彼女の問題点を指摘してこれはメンバー大多数の意見だ、と。私は悩んで結局、Aに全部伝えました。そこで初めてAは自分がそういうふうに見られているのだと知った、と。それをわざわざ教えてくれた私に逆に執着してくれちゃいました。結局私はイイ顔しいだったので、本音の本音「私自身もメンバーたちと同じ思いであなたが苦手なんだよ」とは言えなかったんです・・・

幸か不幸か、Aとは学部は一緒ですがコースが違ったので同じ授業を取ることもあまりなかったのですが、結婚が決まって(大学の卒業式の3日後) 仲の良かった同じコースの4人に招待状を渡しているところを目撃して「自分も呼べ」と。言われてみれば夫と付き合うきっかけになったゴウハイ(笑)の後、「いつでも遊びにおいで」と言ったお調子者男子を訪ねて夫の大学へ潜入したのはAの案で、ある意味それががきっかけで2回めのコンパ、その後、夫と付き合い始めた、と言う経緯がありました。(すっかり忘れていた)なので、Aは自分がキューピッドだと思っていたようでした。実は仲の良かった同じコースのメンバーは、そもそもそのゴウハイへの参加は超堅物の別の友人(B)をコンパとかに連れて行ってあげて(Bは私と一緒なら行ってもいいと言った)、と言ったことで夫と出会ったのだから、Bこそキューピッドだと。(Bも本当に変わり者でした・・・) 私としては同じコースでそれこそ入学式の日から一緒にいるBの方を取ることになりました。(この二人がありえないくらい仲が悪かった)私は結局、誰にもイイ顔をしていたので二人の間である意味取り合いがあったのかも知れません。

でも!!! 本当は私はAもBも苦手だったんです。Aは超わがままでBは変わり者。周りが手を焼くと私に丸投げをしてくるんです。Aは国立大学の付属高校、Bは公立の女子校から来ていました。うちの女子大は内部進学がおそらく7割位なので、入学式当初から結束が強く、私を含め外部から進学してくるのはある意味異端児でした。その異端どうしでひっついていたというのが正解かもしれません。下から来たお嬢様方は大学でお勉強するつもりなんてありません。授業なんておしゃべりで先生の声は聞こえません。代返や代筆を頼んで授業はサボりまくり。

40人の講座で出席者7~8人なのに、3~4人の代筆(出席カードへの署名)を頼まれるって・・・ 結局、真面目に授業に出ているのはほとんどが外部進学の子たちでした。その真面目グループに属していたのが私とBと結婚式に呼んだメンバーでした。一人だけ中学からの超お嬢様がいましたが性格がアニキでした(笑)私は彼女がヘビースモーカーなのが苦手でちょっと距離を置いていました。でも、なんだかんだで一緒にいるのでそのまま結婚式にも呼んで、今も年賀状だけは続いています。

さてさて、私がBが苦手な理由は彼女は超まじめに授業を聴いていてノートもしっかり取っています。私もしっかりノートを取る方ですが、たまに隣に来た人に話しかけられたりするとNoが言えずに付き合ったりしてしまいます。聞き逃したことができてしまうので、たまにBに「ここって、何だっけ?」と聴いても絶対に教えてくれません。当然、休んだ時にノートを見せてほしいと言っても断られます。ところが、ある時、自分が聞き逃したところを私がメモしていることに気づいたBは「ちょっと、今何を書いたの?」とさっと私のノートを取り上げたのです。私はとんでもない悪筆で、グチャグチャにノートを書くのであまり人に見せたくはありませんし、以前、休んだときのノートを見せてほしい、と言って断られているので取り上げられた上に「次回まで貸しておいて」と言われたときにはものすごく嫌な気分になりました。でも「断れなかった」 そして、それきっかけで他の授業のノートも全部チェックされました。そんな関係でした。彼女は内部進学の真面目グループにも接近して試験のときには「先輩からのデータ」をもらっていました。それを教えてほしい、と言ったらきっぱり「嫌だ」と言われました。そしたら出席番号がひとつ前で実験の時に一緒になる超お派手なお姉ちゃんが「言ってよ~ あるよ~ 過去問~~!」ってアッサリくれたんです。1~2年の時は自力で試験を乗り切ったので、ぶっちゃけ酷い成績でした。

でも、2年になって専門科目になってからは、お派手だけど気のいいお姉ちゃんたちのおかげで乗り切ることができました。そう考えると、私がBから受けていたのは何だったの? と言う感じでもあります。それでいて皆して「あの子のお守りができるのはあなただけ」と押し付けて・・・

あの子のマイブームで「人を叩く」ってのがあった時、私は単純に名前を呼ばれるついで頭やほっぺたをひっぱたかれる、って事がありました。

今らか思えば、自分の周りだけだったのかも知れませんが、中学ぐらいの時から「ほっぺたを叩く」ってのが女子の間ではやったことがあります。普通にですが、結構、痛かったりする本気っぽい叩き方の子もいました。でも、それは誰かが一方的にやられているわけではなく、まさにコミュニケーションの手段としてお互いにやられていたので、それが今で言うところのイジメではなかったという認識ではいました。でも、そんなのは中学生で卒業して、大学生の女子が挨拶代わりに友人のほっぺたを叩くって・・・ どうやら彼女は中学も高校も親しい友人がいなかったようで、いわゆる大学デビュー? で、そのほっぺた叩きが気に入ってしまったようです。そのターゲットになってしまったのが「優柔不断で何も言えない」私でした。

今の私だったら本当にAともBとも距離を置けるのでしょうが、本当になんであの頃の私ってNoが言えない人間だったんだ、と思います。

ABとも大学を卒業してからはほとんど没交渉です。Bとだけは今も年賀状だけは交わしています。大学卒業と同時に他県の先生になってしまったのでこちらには戻ってきませんでした。割と遅い結婚だったようですがちゃんと結婚もしたようですが、私を含め大学時代の友人の招待はありませんでした。最近では先生を早期退職して公的機関の嘱託をしているようですが、なにか新しい事業を立ち上げる準備中だというような連絡がありました。彼女とは25年くらい前、別の友人(結婚式で呼んだ)のダンナさんのお葬式であったきりです。この時は申し訳ないけれど大学卒業以来 会っていなかったメンバーとプチ同窓会状態でした。その時に結婚式に呼んだメンバーの一人は「今は殆ど付き合いがないから行かない」と連絡があり、この友人とはこの段階で切れました。と言っても他の仲間ともほとんど「年賀状だけ」の付き合いです。

正直言って、もしもこの先付き合いが無いならそれも仕方ないね、と言う感じです。

高校時代の友人(3人)もやはり年賀状だけ。数年前に一人のご主人が亡くなりましたが、お悔やみすら失念してしまいました。一番仲の良かった友人は結婚してずっと関東に暮らしていましたが、去年、ダンナさんが定年になって地元に帰ってきたようです。それでもやはり会うこともないのかな、と思います。私の友人の中では一番の変わり者でしたが、結婚後は二人の息子を持ち専業主婦を貫きました。今でも不思議でたまらない存在です。なので会ってみたい気もしますが、ある意味、変わり者のままでいてほしい気もあるし、オトナになっていてほしい気もあるし、でも、やっぱり触れないほうがいいように思います(笑) 私は高校時代、彼女に恋していました。自分には全く無いものを持っている彼女に恋い焦がれていた気がします。不思議な不思議な存在でした。彼女の白くて細い首を絞めて殺してしまいたい衝動に取り憑かれていました。今もあの狂気のような思いが何だったのかと不思議な気持ちになります。

中学時代の友人(C)はこれまでもチョクチョク出てきますが、私は今も彼女が私を「親友」と呼ぶのをためらいながら友人を装っています。

私は出会いの時(小学6年)から彼女が苦手でした。派手で美人で目立つ転校生でした。

中学時代、初めて彼女を家につれてきたときの両親の反応は、父が「色気のある子だな」で母が「男好きのする子だ」でした。高校の時、彼女は母親(養母)の愛人に手を出されて連れ回される、と言うことがありました。のちに大阪で発見されて戻ってきたのですが、とんでもない修羅場になりました。中学時代、彼女と付き合い始めたのは私の別の友人(D)に対するあてつけからだったのですが、その時に彼女の生い立ちを聞かされて逃げ出せなくなりました。母親は彼女を虐待していました。真冬に裸足で我が家に逃げてきたことがあります。私も暴言大王の母親に苦しめられてはいましたが、肉体的な虐待はなかったし、金銭面では恵まれていたと思います。

その日は丁度私の誕生日で手作りのお寿司とケーキでお祝いをしていました。母は何も言わずに彼女を入れて、私は8畳の自分の部屋のこたつでぬくぬくと、彼女と一緒にお寿司を食べました。その日は家庭教師の先生のところに行く日でした。歩いて3分位の所に下宿している大学生のお兄ちゃんに勉強を教えてもらっていました。実はちょっとかっこよくて憧れていました。

そこへ彼女も一緒に行っていいか?と言ったらあっさりとOKをもらって、一緒に勉強しました。と言っても彼女は勉強道具を持っていたわけではないので隣でだまって聴いていました。

彼女は先生の顔をじっと見ていました。そしたら先生の鼻の頭に見る見る汗が吹き出してきました。私は両親の言った「男好きのする子」と言う意味をその時ハッキリと認識しました。正直なことを言えばものすごく嫉妬した気がします。

9時を過ぎて授業が終わり、彼女が「もう帰るね」と。でも「家に入れてもらえないんでしょ?」と言うと「いつも12時を過ぎれば開けてもらえる」と

”いつも”・・・ 当時の私は9時にはベッドの中、と言う健康的な生活をしていました。衝撃でした。何もできないこと、恵まれている自分の境遇に申し訳無さが募りました。その頃にはDと仲直りしていて、彼女へのあてつけでDが嫌いだったCと付き合う必要はなかったのです。

そう、私はDへのアテツケのためだけにたまたま話しかけてきたCと仲良くしてみせたのです。もう本当にいやらしいドロドロとした自分から逃げ出したかったのに、でも、彼女の境遇を知ってしまったら逃げることも怖くなりました。そうして、気がつけば45年も彼女の近くにいます。

でも、彼女といると私は今も罪悪感に苛まれます。

その後もCは男性絡みでトラブルが有り、私は生まれてはじめて警察からの「事情聴取」というのも受けました。高校生だったので、親が立ち会ったのですが(別室で)

親の前で彼女の男女間のこと、それを知っていたのかどうか、どうして あなたにだけ相談したのか、というような事を説明しなくてはいけなかったのは思春期の超奥手の私には辛かったです。なんでも暴露してしまう私でもさすがに書けないような内容です。

ずっと喉に刺さった抜けない棘のように私をさいなみます。

 

もういい加減、抜け出さなくては・・・

私は人付き合いが苦手です。でも、とりあえずその場しのぎの人間関係はギリギリ構築できます。当たり障りのない、無害な人としてそれほど人に嫌われることもないと思っています。

実はそれくらいの距離感がいいのです。

私にとって友人はいつも、自分を嫌悪感に貶める存在だったようにも思います。

私は人と親しく交わってはいけない人間だとも思います。