父は53歳で肝硬変で亡くなりました。

吐血して救急車で運ばれたのが50歳のときで、かねてから「俺は50で死ぬ」と言っていたので、よもや、と

父が50で死ぬと言っていたのは若い頃に見てもらった占い師に言われたからだそうで、それからいつ死んでもいいように生きてきたようです。

と言うか、口癖が「俺はいつ死んでもいい」でした。母はそれを聴くたびに「私は娘三人を嫁に出すまでは死んでも死にきれない」と自分のことしか考えない父の事をメッチャ怒っていました。

私は父が26歳のときの子どもで22歳で結婚し、24歳で息子を生みました。父が救急車で運ばれたと連絡を受けたのは、その息子の臨月のときでした。

正直、「おとうさんが救急車で運ばれたって」と電話を受けた夫が言った時、夫の父のことだと思っていました(義父は父より丁度20歳年上) それが自分の父のことだと知った後も、大したことないと思っていました。しかし、診断は「肝硬変の末期、おそらくもっても3ヶ月」と。さらに肝臓には癌もある、と

臨月に入ったら里帰り出産をする予定で用意はしていましたが、すぐさま実家に戻り、私が父の病院でつきそいをはじめました。母は商売を一人で切り盛りし、夜に泊まり込みました。当時はまだ、看護は家族か家政婦を雇うというのが普通でした。

父は食道静脈瘤が破裂してバルーン?療法で一命をとりとめましたが、本当に運が良かったのだと思います。近所の救急病院は祖母が亡くなった病院(A)だったので父は嫌がり、別の病院(B)にしてくれ、と頼んだそうです。しかし、その病院には担当者がいなくて仕方なく、そのA病院に運ばれました。その時の当直がC大学病院のY先生でした。この先生の処置が良かったおかげで助かったのです。そのY先生はその月がこのC病院での勤務が最終で、当直もその日が最後だったのです。その後、たまたま父と同じ症状でB病院に運ばれた知人がそのままそこで亡くなったということを知らされたのは随分経ってからでしたが、あの時B病院に父が搬送されていたら同じことになっていたかも知れません。(B病院では私も盲腸の手術をしたことがある)

父の余命宣告をしたのはY先生でしたが、その後、自分のC大学病院への転院の便宜を図ってくれました。そのおかげで、父は3年近く生きながらえることができました。

この間に私は長男を生み、すぐ下の妹は嫁に行き、私は娘を見せることもできました。妹の初めての子は父が亡くなったと同じ日に生まれました。(妹の旦那さんが彼に父の名前の一文字を取って命名してくれた時、私達家族は声を上げて泣きました)

末っ子も父に結婚相手を紹介することもできたし、3年弱の時間はとても濃密な時間だったと思います。

あらためて、運命と言うか、ほんのちょっとしたタイミングでそれらを得られるか失うかなのだ、と思いました。

父が肝硬変になったのは自業自得だと思います。とにかくお酒の絶えない人でしたから。

でも、そこに至るまで気づけなかったことに、いえ、気づいていたのに重要視してこなかったことに母をはじめ、周りは後悔しました。

父は献血が趣味で、仲間を集めて「献血会」をしていました。でも、実はもう何年も前に献血不可になっていたのだそうです。お酒での失敗も増えていたようで、父の友人たちは「酒の飲み方がひどくなっていた」と。汚い話ですが、母は父が夜中に起き出して布団の上で寝ぼけておしっこをしてビックリした、とか。どれだけ午前様で帰ってきても次の日は普通に仕事をしていたのにグズグズすることが多くなったとか。そもそも日焼けだと思っていた父の顔色のどす黒さは実は「黄疸」で言われてみれば白目も黄色っぽかったし、蜘蛛状紅斑と言われる掌の症状も出ていました。もともと、肥満だったのですが、結構 無理なダイエットをして一気に体重を落としたりもしていました。(知人が薬局をしていて、ここで痩せ薬?を処方してもらっていた) リバウンドを繰り返して、また高額な薬を買って試して、というような感じです。

肝臓をやられるとせん妄、幻覚と言う症状が出るのですが、父が最初に運び込まれたA病院は空きがなくて特別室に入院していました。病室の隣にシャワーやトイレ、応接室がある部屋で、その応接室への入口付近に大きな風景がかかっていました。妹が付添についていた時に、見舞いに来た友人知人に父が真顔で「夜になるとあの絵の中から、これっぴきの小さな虫が大量に出てくる」と。小さな虫が見えるのは肝硬変の典型的な症状らしいです。

父は友人知人の多い人で私が小学生の時、居眠り運転の自損事故で入院したことがあるのですが、その時にあまりにお見舞客が多くて、同室の人に「今まで何度も入院したことがあるが、これほど人が訪ねてくる人は見たことがない」と言われていました。

救急車で運ばれたのでご近所さんには入院がバレバレで、地元育ちなのでネットワークが広く、入院直後から人が訪ねてくるので看護師さんに頼んで「面会謝絶」の札をかけてもらっているくらいでした。しかし、そうなるとさらに大騒ぎになり、ドアの外だけでも、とやはり見舞客も絶えず、と言う感じでした。父が入院して3週間後に私は出産のために付添を降りて妹に代わりましたが、この頃から見舞客も部屋に入ってもらうようにしたようです。

妊婦の私のことも気遣ってくれていたのかな、と後になって気づきました。

なにせ、父は家庭など顧みない遊び人、と言うイメージが強かったので、私が嫁に行ってから帰ってくる時に「あいつが好きだったから」と好きな食べ物を用意してくれていた、と言う話を聞くと嬉しい反面、ホントかしら?なんて疑っていました。私の結婚式当日、家を出る時間になっても帰ってこなくて焦った、と言われても?でした。でも、妹が嫁に行く日、母が妹に付き添って先に旦那さんの実家に行ってしまった後、父の準備をさせようとしたら、グズグズ用意を渋ったり、ひげ剃りで顔を切って流血騒ぎになったりで苦労をして、「ああ、私のときもこんな感じだったのか」と実感しました。いつも冗談で「お前らは嫁に行かなくていい。3人とも家にいればいい」と言っていたのはある意味本気だったんだな、と。ちっとも家にも帰らず私たち子供のことなんて関心もないのかと思っていたけれど・・・ 特に私は男の子で生まれなかったことを責められ続けているように感じていたので・・・ もっとちゃんと向き合ってくれていたら、生きているうちにもっと父親のことを好きでいさせてくれたら、と思います。

結局、父は沢山の人に愛されて若くして亡くなったおかげで私は今も父を美化しています。

父のお通夜は雪が降りしきる仲、近くのお寺で行われました。

私が子どもの頃からずっと良くしてくれるおばあさんがいました。(うまれて初めて買ったもらったレコードピンキーとキラーズの「七色の幸せ」)物心ついてからずっとお年玉をもらっていたのですが、大学卒業までもらったのに、その2年後息子が生まれてから、その息子が大学院を卒業するまで、そのおばあさんの娘さんに引き継いでお年玉をもらっていました。その娘さんのダンナさんが大雪の中、ずっと参列者に頭を下げてくれていました。彼自身、高血圧の持病があり無理をしてはいけない身であったのに「○ちゃんを見送りに来てくれた人に礼儀を尽くしたいから」と。たくさんの沢山の人に見送られて、本当に父は幸せな人だったんだな、と思いました。その後、父が亡くなった後、それこそ自分が亡くなるまで必ずお盆と父の命日(12月)にお参りに来てくれる同級生がいました。彼が生涯独身であったため腐女子の私はイケナイ妄想をしたりしましたが、でも父の友人たちは本当に「男が惚れる男だった」と言っていました。もちろん?女性にもモテていました。同窓会に行くと毎回必ず、同じオバサンが父の横に座って写真に写っていて母が珍しく嫉妬していたし(笑) 葬儀には飲み屋のおねーさま方もたくさん来ていました。

ご近所のお年寄りにも大人気で通夜のときには誰もが「○ちゃんには良くしてもらった」と。

父は配達に行く時にバス停で待っている年寄を見つけると、いつも気軽に乗せていってあげてたようです。それこそ目的地のバス停ではなく目的地そのまままで。どうりで父が配達に行くと時間がかかるはずでした。父は家族にはそんな事は何一つ言わずにいたのでオドロキました。

さらに学校の先生をしていた近所のおじさんはブルーカラーの多いうちの地域では浮いていてスマしたスカしたた奴、と言う感じで人とあまり接してませんでした。そのオジサンがお通夜の席で声を上げて泣いてたのが超オドロキでした。父だけが普通に接していたのだそうです。そんな話も全く知りませんでした。

子どもの頃から日曜日になると必ずやってきて父の配達についていっていたオジサンもいました。それがいつしか、すぐ家の前の大工のオジサンも加わりました。彼は大工さんなので雨が降ったらお休みになるので、雨の日にもやってきて父の配達に付き合っていました。もともと、父にベッタリだったオジサンが嫉妬?していました(笑)

結局、父のことをよく知ったのは父が亡くなってからでした。もちろん、父が友人に好かれていたことは知っていましたが、それ以外の人からも好かれていたことは、そこまで、とは思っていませんでした。

私は父に顔と体型がそっくり、と言われてきました。父は若い頃には細かったので「ハンサム」と言われていました。松方弘樹橋本龍太郎に似ている、と言われていました。今の時代向きではありませんが、その時代だったらたしかにハンサムだったと思います。小学校の時に遊びに来た友人が「お父さんすごいハンサム!!」とクラス中に広めてくれて恥ずかしい思いをしたこともあります。だって、私は父に瓜二つ、なんです。

そう、男性だったらハンサムだったかも知れない私はずっと不細工な子でした。父と違って生まれつきおデブだったせいかも知れませんが・・・ でも、結局、人格の違いなのでしょうか?

そう、父がハンサムであること、父がモテることは同じ顔であるはずの私にとってはコンプレックスでしかありませんでした。

自分も男だったら・・・ と思ったけれど、でも、そもそも人間性が違うんだ、と。

私には父にはない「真面目さ」があったのに、それは人間的な魅力ではなかったということなのでしょうか・・・

 

お酒ばかり飲んで出歩いて遊び歩いて、家庭も顧みないで勝手に体を壊してとっととしんでしまった身勝手な父。

私の大切なものをゴミ扱いして何でもかんでも捨てたり燃やしてしまった父。

小さな頃はしょっちゅう、お尻を叩かれていた、と言われてたけれど、これはありがたいことにあまり記憶にありません。

でも、3人の娘一人ひとりにこっそり「おまえが一番べっぴんだ」と言ったり「誰も嫁に行かなくていい」と 

父が亡くなって32年。生きていたら85歳になります。どんな憎たらしいジジイになっていたんでしょう。

でも、きっと、どこかおちゃらけたお調子者のイイ爺さんだったんだろうな、と