霊視の先生

お仕事を始めてから中々時間が合わないので霊視の先生に視てもらえる機会がありませんでしたが、先日久しぶりにお時間をいただけました。

と言っても30分しか枠が取れなかったので中々聞きたいこと全てをお伺いすることができず、少々もの足りない感があります。

それでも、とりあえず、体の不調に関しては今のところ何の問題もないと言っていただけました。

息子との関係は以前チラッと聞いた時にやはり問題ないと言われていました。盆と正月にせいぜい30分程度しか顔を出さないのに・・・と思って少しモヤモヤしていましたが、先生に視てもらった帰り道、ラインを開くと、息子から「誕生日おめでとう」メールが来ていました。

いつも母の日と誕生日にプレゼントを送ってくれるのですが「母の日だけで十分だから来年からはなくていいよ」と去年は還暦と言う事もあってありがたくいただいた後に伝えておきました。いつも誕生日を過ぎてから「遅くなったけど」と義務的に?送ってきていたので負担なんだろうな、と思っての気遣いです。しかし、今年も「遅くなったけど年内にはケーキが届くはずだから」と。「これからはいいよ」を忘れての事なのか、それとも先生の言うように「普通に感謝して大切に思っていますよ」と言うのが正解なのか… でも、それなりの気遣いはしてくれているのでやっぱり先生のおっしゃる通り疎まれているわけではないのかもしれません。

先生はいつも、あまりきっぱりと結論を言ってはくれないので娘は余計にモヤモヤするからもう視てもらわなくていい、と言います。私も今回は車がなかったので電車で片道2時間近くかけて出かけてきました。で、30分。鑑定料は5000円なのでとてもありがたいです。ただ、やっぱり時間が短くて消化不良になってしまう事は多いです。とは言っても、結局私も、今まで何度も何度も同じことを繰り返して訊いているだけで、先生は一貫して同じアドバイスを私にしてくれています。つまり「あなたは役割を捨てて自分の人生を歩きなさい」と言う事と「自分が本当にやりたいことは何かを見つめ自分の選択を信じなさい」と言う事。

その「本当に自分がやりたいこと」がわかないし、もしそれを見つけても自分で信じられないのです。

私が私のやりたいように生きると言うのは結局どういうことなのでしょう?

思春期の頃から私はいつも日記に「自由になりたい」と書いていました。それは結婚してからの日記にも常に書いてありました。

逆にいつからかその言葉を使わなくなっていたのに、また娘との葛藤が続き、今度こそ本当に心の底から「自由になりたい」と切望していた気がします。

それは「一人になりたい」と言う意味合いが強かったのかもしれません。私は一人で行動することが嫌いではなかったし、めんどくさいことを避けるために何でも一人でガンガン進めていくこともありました。でも一人で旅行には行けないし、それどころか食事にだって行けないし、小さな事では自分が好きで撮りためているテレビ番組もできれば家族と一緒に見たい。好きなものを家族と一緒に好きになりたい。一緒に出掛けたい。同じ時間を共有したい…

これほど「みんなが一緒に」を願っているとは思ってもみませんでした。

と言うか、一人にされるのが嫌なのかもしれません。

あれほど自由になりたい、一人になりたいと思っていたはずなのに…

 

これはただ年を取ったと言う事でしょうか? それともそれが本質だったのでしょうか?

 

今回も聞きたいことが山ほどあったのに、結局はまた娘の事が中心になってしまいました。結果として以前にも言われた「あなたが一生娘さんの面倒を見ると言うのも可能です」を再度言われてしまいました。「一番の望みは結婚して子供を持ってほしいと言う事です」と先生に言ってましたが、先生は「親御さんはみんなそうですよ」と言うような感じでした。それが叶うと以前は言ってくれていたのですが、今回はそこには触れませんでした。私が、関わる人が増えると心配事が増えていく性格なのだと理解してくださっているのだと思います。

 マンションにはずっと住み続けることも可能だし、いずれそこを出ていくこともありうる、と

ただ、この先の自分の人生の軸足をどこに置くかで、元の家の処分は考えていい、と言う事でした。いずれ家族や親族がそこに戻ると言う可能性がないわけではないので手放したくなければ手放さなくてもいいし、人間関係と同じで「この先の自分の人生の必要ない」と感じたら処分していくのも何らおかしなことではない、と。

正直、元の家を手元に置いたまま今のマンション生活を維持できるだけのお金に困っていないし、多分、先生のおっしゃる感じからすると、この先も維持できるのだと思います。いつも先生は「ない道だけはハッキリと言う」とおっしゃっているので。元の家を売って処分しなければ生活していけないのであれば「売った方がいい」と多分おっしゃると思います。

なので、まさに「自分がどうしたいか」だけなのだと思います。そこに「思い入れ」と言うものが入ってくると先生は「感情は見えない」ので何とも言えない、と。

そうするとまた「自分はどうしたいのか」と言うのが見えないのです。

そもそもなぜ、夫名義の家を「私がどうしたいか」なのでしょう。もちろん、私が何も言っていないグズグズしているのが原因かもしれませんが

夫が「この家は売るから、これから片付けをしよう」とか「いらないものは処分しよう」とリーダーシップを取ってくれればすむことなのです。

何年も何年も何十年も言い続けてきたこと。結局いつも自信がないのに私の判断で全てがを任されてきたこと、それが本当はとてもしんどくて不安だったこと…

私は元々 優柔不断で自分の服一枚買うのに何時間も迷って迷って買えない人間でした。

妹たちに付き合ってもらって呆れられてました。母がしびれを切らして私の着るものは買ってくるような生活でした。

それなのに私以上に優柔不断で何も決められない夫のせいで結局、いつも私が決断をせざるを得なくなり、それが当たり前でまるでいつも私が自分の意見だけを通しているようになり・・・

その結果が娘の自殺未遂…… ここで私はもう、それこそ私自身も全てを失ったのだと思います。私の選択は人を傷つけ追い詰めていたのだ、と突き付けられたのですから。

あの時、夫は「前から思っていたのだけど」と後出しで非難しました。もちろん強い言葉ではなく思ったことを言っただけなのでしょうが、それはもう私にとっては盛大な「後出し」です。

これだけは言いますが、私は「自分が悪いとは思っていなかった」のです。私はいつも自分が正しいと思う事をしてきました。それが世間一般の常識と同じだと思い込んでいたのが間違いだったと言うのであれば、なぜその時に言ってくれなかったのか…

娘との葛藤の10年余りは本当に地獄のようにつらかったです。今もそれがすべて解消したわけではなく本質的に深い所で相いれない思いは続いています。

でも、私は自分の考えを確かに押し付けてきたのかもしれませんが、常に「家族のため」を思って「自分を後回しにして」 今、それこそ「自分が何をしたいのかわからない」くらい家族のために生きて来たのに……

娘は「私の自己肯定感が育たなかったのはそう育てたお母さんのせいだ」と責めました。私の母は私を直接的な言葉で貶める人でしたが私は決して娘に対して暴言を吐いたことはありません。自己肯定感がどう育つかわかりませんが、私だって母に罵倒されて育ったので自己肯定感は低いと思います。でも、それをいつまでも「母のせい」とは言わないし、逆にそう言われるまで母のせいだと思ったことはありませんでした。私にとって母は絶対的な存在だから自分の出来が悪いから、母の望むレベルに達していない自分が悪いのだからと本気で思っていました。

でも、それでもやっぱり、ののしられるのは辛かったので絶対に子供を罵倒しないと、それだけは守ってきたと思うし、やってもらえなかったことが悲しかったので、それこそ過保護過干渉と言われてもいいくらいに手伝い手助けをしてきました。

母親として母親として母親として

 

霊視の先生におそらく初めて視ていただいた時からずっと「役割を捨てなさい」と言われ続けてきました。

もう7~8年になると思いますが、いまだにそこから脱却できずにいます。

私が私になるために切り捨てるものがあっても、それは間違いではないんだよ

 

でも、その「私」が今もわからないのです